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阿蘇版万里の長城

概要

阿蘇の草原を歩いているとあちこちで土塁と出会います。繁った草の中を縫うように走る細長い土のラインを昔から地元では「土手」と呼んでいます。
数ある土塁のなかでも特に目立つのが、米塚の頂部を南北に走る土手です。バスに乗った観光客などの目にもよく止まり、その度にバスガイドが「山分けの語源にもなっているんです」と冗談をいっていました。米塚を写した観光写真にはこの土塁のラインがはっきりと浮き立っており、興味を抱いた人も少なくないはずです。
自然観察会などで「この土塁は何のために造られたのでしょう」と参加者に質問しても、ほとんどが「境界・防火線・排水溝」と答えます。「牛馬が乗り越えて逃げないようにするため」という正しい理由を知っている人は多くありません。

土塁の誕生とその背景

土塁が構築されたのは昭和初期です。それより以前は、草地を放牧地と採草地に区分する囲いはなく、隣接する牧場間の境界さえも曖昧な状態でした。
当時の農家は、放牧牛場が食べ残した草を刈り取って干し草として利用し、効率の悪い草原利用を行っていました。また、囲いがないため、放牧牛馬が危険な崖から転落死する事故が多発。さらに牛馬が放牧場から逃げ出して農作物を食い荒らすという被害もあとを立ちませんでした。放牧場を囲み、草と家畜をきちんと管理し、効率的な草原利用を行うことは、当時の畜産農家の悲願でした。
本格的な土塁を作るには莫大な費用と努力を要します。大正時代にも放牧牛場を囲い込む手段はとられたものの、それは小規模なもので、自然の地形を利用し、木の杭と割竹で作った柵が用いられていました。
木や竹では耐用年数が短く、せいぜい10年ぐらいしか役に立ちません。しかも、これで広い面積を囲むとなると、大量の資材が必要となります。今でこそ有刺鉄線と鉄柱で容易に牧柵を設けることは出来ますが、大正から昭和初期までは鉄材は高価な資材
であり、軍需物資としても極めて貴重でした。
そこで、当時の農家は自力の人海戦術で構築できる土塁を考案しました。1度造れば半永久的に機能を果たす土塁こそ、草原の有効利用の切り札でした。

土手つき

阿蘇の農家では土塁を構築することを「土手つき」といいました。この土塁構築の詳細が記された「昭和7年草地改良計画書」によると、阿蘇郡の先駆的な草地改良の指定牧場として馬場豆札牧場(234㌶・58戸)が選ばれ、国や県の補助を受けて昭和7年から9年にかけて総延長15㌖の土塁が構築されました。土塁の構造は当時「六尺胴がえし」と呼ばれていたサイズで、高さ1.8㍍、底辺1.8㍍、上部の幅0.6㍍の跳び箱状が一般的。両側の土を掘って積み上げるので高さは更に高くなり、牛馬が乗り越えるのを阻止しました。馬場豆札牧場は阿蘇郡の先駆的な牧場とされたため、同牧場の組合員たちはその後、郡内各地の土塁構築の技術指導に赴いたそうです。
土手つき作業は稲の収穫を終えた冬の農閑期に行なわれ、体力の優れた者だけが従事して作業能率のアップが図られました。集まった20~30人の男たちは請け負い組をつくり、朝のまだ暗いうちに集落の定められた場所に集合。それぞれの手に鍬と弁当を持ち、入会地の牧場へと向かったそうです。
弁当はワッパの上下にご飯を詰め、上は昼食、下は3時の「よけまん」用。おかずは漬物が主で、干し鰯の4~5匹もついていれば上等でした。お茶は竹筒に入れて持参しました。芝土を切るための備中鍬をヤスリで研いで切れ味を良くし、能率向上に努めました。作業は分業方式で、最も熟練を要する芝土切りは古参の仕事。切り取った芝土を備中鍬でブロック状に切り、それを一枚一枚積み上げました。(ざる)で土をすくい、芝土の間に詰める作業は若い者が担当しました。
当時、土塁構築1㍍当りの労賃は40銭。1日当たりの歩係りが2㍍なので、能率を上げると1日1円以上にもなりました。この昭和初期は不景気のどん底で土塁構築による現金収入は農家の家計を潤したそうです。
一の宮町の土塁の総延長は約80㌖、阿蘇郡全体では過小に推定しても約500㌖にも及びます。この総延長を1人1日当りの作業歩係りで計算すると、構築作業に延べ約25万人が投入されたことになります。総延長、動員総数ともに、まさに阿蘇の「万里の長城」と言えます。
土塁によって放牧地と採草地が区分され、草の利用効率が良くなりました。その結果、約1㌶の野草地で成牛1頭が飼育できるようになりました。また、崖から転落死したり、牧場から逃げだしたりする牛馬が激減しました。採草地では干し草の生産量が安定し、さらに2次的な効果として、土塁を構築した牧場は、隣接牧場との境界や町村界が明確になりました。

相互扶助(放牧牛)

土塁や有刺鉄線によって放牧場の柵が整備される以前、放牧された牛が断崖や急斜面から転落死する事故が多発していました。このことを地元では「崖落ち」といいます。昔、事故死した牛の肉は集落の人々に分配され、貴重なタンパク源となっていました。その代わり、集落ではみんなで見舞金を集め、飼い主に届けました。「村の相互扶助」の知恵として、損害共催的な仕組みが成り立っていました。

カテゴリ : 生活
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