ホーム > 阿蘇山衆徒

阿蘇山衆徒

概要

山林修行は元来、仏教において重要な修行方法の一つです。奈良時代末、南部仏教の退廃に伴い、都を捨てて各地の霊山へこもる僧侶が現れ、山岳仏教の興盛はその傾向を強めました。阿蘇山を修業の場とした僧侶の存在を示す最古の記録は建久6年(1195)の阿蘇文書の史料でした。
鎌倉時代、僧侶たちは組織の整備をすすめ、南北朝初期には阿蘇文書により「顕密勤行之祈祷僧」が衆徒と称して、内談という合議制を持ち、年行事を定めて阿蘇一山を運営し、「常住不断之行者」である久住を配下におきました。同時期、開祖再栄読師の旧室と伝える西巌殿寺を本堂として、衆徒・行者の坊舎、両者に仕える山伏たちの庵室が次々と設けられました。しかし衆徒の支配による一山の発展も領主・阿蘇氏により規制されました。戦国期、衆徒方の三坊職が行者方に与えられたのは一つの象徴です。
この結果、坊職は衆徒方20、行者方17と定まりました。戦国末の混乱に伴って一山は退転を余儀なくされましたが、加藤清正によって麓に再興されました。
再興後は衆徒方の学頭坊が一山の中心・衆頂となり明治4年(1871)の廃寺まで主導しました。


カテゴリ : 文化・歴史
索引 :

このページのURL:

TOP