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阿蘇一揆の展開

阿蘇一揆の地域的展開

概要

明治10年の阿蘇一揆阿蘇郡全域を統一して進行したわけではありませんでした。警視隊と薩軍の進出や戦闘状況、地域の経済事情や指導者の存在などがからみあって阿蘇一揆は阿蘇の各地域ごとに展開していきました。

地域

阿蘇谷(一、ニ、三小区)

2月25日小野田村内の綾野下原村、新村の農民が借立米について寄合
2月26日大津町の薩軍二重峠に進出。小野田村の村民集会で借立米について傘連判を作成
2月28日黒流、小野田、小倉、小池、山田、役犬原などの農民約300人、内牧の浄信寺において戸長・用掛と集団交渉。解散後農民は内牧の地主・高利貸しや戸長・用掛の役人の家屋を打ちこわしにかかり、さらに宮地村へ押し出した。
3月1日一揆勢は坂梨村を打ちこわし、三小区の者は手野へ、2小区の者は西町、竹原、坊中、北黒川へと押し出した。黒川で内牧の地主や住職などが打ちこわしの中止を申し入れてきたので、代表が交渉し「十年前貸金は悉皆捨方、10年後ハ元金据置利子ノミ捨方、小作ハ四部六分」の証文をとり、この日は退散した。一揆勢三千と報告されている
3月2日一小区の農民は宇土村で打ちこわし、内牧から山田村へ押し出す。黒流、小野田の農民も参加し、さらに内牧で打ちこわし。内牧の高利貸しは「貸金并質物悉皆捨方」と張り出した
3月3日小野田村では下原の天神社で寄合、「町方ニテモ借財一切捨方相成候ニ付、村方モ捨方ニ可致事ニ相談シ悉皆捨方」を要求すると決定した
3月5日黒流の農民は内牧の高利貸しから借金証文を取り返す(3月中旬まで続く)
3月8日小野田村では借立米について歎願書を作成
3月10日警視隊が竹田から笹倉、大利などに進出。
3月15日警視隊は坂梨へ進出、ついで内牧へ進出。これに従って坂梨、内牧で有志隊が結成された。このころまでに阿蘇谷の一揆は鎮静化
3月18日二重峠の戦い。警視隊は二重峠、黒川口の薩軍を攻撃したが、敗退し、内牧、坂梨へ退く。
4月3日警視隊は竹田に撤退。薩軍は坂梨に進出し大黒屋に本陣を置き、滝室坂に陣を築く
4月7日警視隊は笹倉に進出
4月13日滝室坂の戦い。警視隊は滝室坂の薩軍と激戦、薩軍は破れ二重峠に撤退。薩軍笹倉で放火
4月20日大津の戦いで薩軍は敗北し、翌21日、大津・二重峠の薩軍は撤退しました

小国郷(四、五小区)

1月下城村弓田、満願寺村黒川で地租改正費について疑惑が出される
2月六日四小区(南小国)で戸長は神官と教導職を同道し、10日まで村々を巡回
2月14日赤馬場村で地券入費取り立ての疑惑及び郷備金取り下げ要求
2月25日赤馬場村の代表、右2件について戸長と交渉、翌日も交渉
2月27日赤馬場、満願寺両村570余戸の農民、四小区戸長詰所(赤馬場村市原)に押し寄せ集団交渉。「戸長を盗人々々と罵り罵り、縛れ々々と縄を投掛候儀」と報告されている
2月28日赤馬場、満願寺両村の農民は前日に引き続き戸長と交渉し、四小区人民宛の戸長精書を受け取る。その精書は、地券入費金前割一筆に壱銭五厘宛取立候分の事、民費予備金840円割出分、郷備金の事、沽券に付村用掛増給の事、満願寺村沽券入費一村割170円余の事、以上4項目について10日間のうちに回答するという内容でした。農民の一部は黒渕村大藪に押し出した
3月1日五小区(北小国)上田村では沽券予備金、備籾、村社神酒などの成り行きについて村用掛と交渉。四小区副戸長らは大分県権令宛「人民動揺に付御出張説論願」を提出
3月2日五小区の下城、西里、北里の農民約100人が北里村玉岑寺に集会、村用掛の説論に憤慨し、本堂に乱暴。戸長と交渉のため宮原に押し出したときには7、800余にもなった。宮原では「2日夕より5日夕迄日数4日間焚出し、塩・味噌・ひじき・香の物等持出し取賄ひ」白米13石2斗7升を消費した。翌3日戸長に対して粗税金割り戻しを要求、郷備金および御客屋売却代金などの成り行きについて交渉。4日も戸長と交渉。9日に至り退散
3月5日5小区では郷備金450円の預証書(惣人民宛戸長の払い戻し確約書)を受け取る。このころ四小区の代表は十小区の大区扱所で郷備金330円余を受け取り8日帰村
3月6日五小区でも四小区同様証文一切捨方の要求が出され、5分拾方5分引き残しとなる。下城村の富豪は「一、地所書入証文利米金当年より三ヶ年間一切たたみ置く事。一、引当これ無き貸方一切捨申すべき事。一、米栗類引当にして貸方一切は無代銭にて差替し申すべき事」と張り出した。
3月9日四小区人民に対する請書の回答期限の日である。郷備金330円余を四小区の4ヶ村(満願寺、赤馬場、黒渕、中原)に分配
3月10日上記4ヶ村では1戸に34銭宛村用掛より配分。請書の他の四ヶ条の取り調べを市原小学校で行ったが、そこに警視隊五番小隊長倉内末盛が巡査を率いて出張し農民に説論を加え、農民から徒党をしない旨の精書をとり解散させました
3月11日倉内隊は五小区に赴き、同様の精書をとり農民を解散させた。倉内隊は翌日久住に引き揚げました
3月14日五小区では沽券予備金割り戻しが行われる(1戸に付下城村1円10銭、西里村3銭)
3月17日旧郷土を中心として四・五小区とも有志隊を結成し治安維持にあたりました
3月20日四小区戸長松崎雅、五小区戸長北里唯義は県に「御出兵願」を提出
4月4日増田宋太郎の中津隊は小国を通過、掠奪を行い、二重峠の薩軍陣営に向かう

波野郷(六小区)

2月23日小地野、波野両村の代表が小国村に寄合。旧久住惣庄屋から六小区に引き継いだ積立金、慶応3年までの貢納残金48円、明治元年以来の郷備金、これらの金銭についての疑惑のほか、昨冬民費取り立てが各村において不平等であったことを戸長に尋問しようと決める
2月25日滝水村では地所買入書入の古証文について無利息年賦要求をすることに決定
2月26日小池野、赤仁田の代表は小園に寄合、副戸長と交渉。滝水、中江村では負債無利息年賦について隣村に交渉参加を呼びかける
2月27日小池野、波野の代表は笹倉で人馬貸銭、学校資金の成り行きなどについて戸長と交渉したが難航。代表らは村継をもって村々に戸長詰所へ集合するように伝えました。
2月28日各村から4、50人の農民が笹倉に集合、正副戸長立会の上諸帳簿調査
3月1日各村の代表者は古証文無利息年賦について競技したが意見はまとまらなかった。その後、戸長詰所で集会、4、500人出席。借財証文は年賦に決定
3月2日帳簿調査が進行する一方、借金利子引き下げの集団交渉により大利、境ノ谷、小園、赤仁田各村の債主から九分通りまたは悉皆捨方の請書を書かせました。この日から7日まで正副戸長を笹倉の民家に監禁
3月3日小池野村代表は、昨冬旧久住会所から戸長が受け取っていた45円を区内11村で分けるため預かる。借金利子引き下げの集団行動は滝水、山崎村に及ぶ
3月4日債務捨方の証言を書いた債主から借金証文を取り戻す。5日、6日も同様廻村
3月7日債主から10年以前は悉皆捨方、10年以降は元金のみ返弁にしてくれるよう農民側へ申し出てきたため、交渉の末、10年以前は悉皆捨方、その後、明治8年までは4分通捨方、それ以降は元金のみ返弁、質地の貸借は5分捨方となる。このころ警視隊の進出により一揆は鎮静に向かう

野尻郷(七小区)

2月26日中村、尾崎村の農民が貢租民費など割戻しについて寄合。今村、祭場村へも働きかけることを決める。
2月27日中村の農民約50人が集会。10戸長を通じて用掛に貢租民費の割り戻しを要求したが拒否される
2月28日中村、野尻、草ケ部、下切の農民は草ケ部村吉見神社に集会、津留村の戸長詰所へ押しかける。この日から3月1日、2日、3日にかけて津留、芹口、矢津田などの農民も参集し、戸長に対して貢租民費割り戻し、郷備金割り戻し、明治8年以来の貢租狩納の精算について交渉。その結果、20日までに郷備金予備金の割戻しをうけた(1戸当たり中村62銭、野尻村80銭余、草ケ部村社倉64銭余、矢津田7村70銭余、津留村は予備金のみ37銭)
3月17日中村では債主と交渉、二歩の利子を一部とし、小作米は四分六分と取り決めた
3月22日草ケ部村社倉で集会、債主へ債財10ヵ年賦を要求したが拒否された。

菅尾郷(八小区)

2月20日菅尾村では用掛に対して民費取立帳の取り調べを要求
2月28日二瀬本村で頼母子講懸金難渋のため講会減じ方を相談
3月7日二瀬本、花寺、菅尾村の講中寄合。講会減じ方のほか、七小区の風聞により八小区も同様民費租税取り戻し、借金利子引き下げ、地券入費、先年戸長詰所の取り扱いで売り払った煙草代精算などについて協議
3月11日長谷村字塚野原では村方集会。二瀬本神社へ村々から150人余が集まり、頼母子講会減じ方、借金利子引き下げ、諸税県庁への納入状況、帳簿取り調べなどを戸長に要求することに決し、柏村の大区議員小崎忠作の斡旋に任せることにし解散
3月12日代表30人が柏村の大区議員宅に押しかけ、前日依頼した件を本日中に解決するよう要請したが、議員は2、3日猶予してくれとして埒があかなかった。この帰路、農民は戸長との直接交渉を計画し村継で連絡しました
3月14日区内23ヶ村の農民、今村の高仏原に集合し菅尾の戸長詰所へ押しかける。租税については、県庁の受け取り書があり疑惑は晴れたが、翌日から帳簿取り調べにかかることにする。
3月15日戸長詰所で帳簿調べをしていると高森の有志隊50余人が来て農民2人に重症を負わせた。これに対し農民は竹や棒で対抗したので有志隊は引き払った
3月16日農民たちが帳簿調べをしていると警視隊が出張してきて、再び大勢集合しないとする請書を出させ退散を命じました
3月22日馬見原村銀主の代人が二瀬本村に来て利子引き下げについて相談したいと申し入れる。村々の頭立候者40人ほどが馬見原村で交渉、借金の利子は月二歩五朱を旧借五朱、新借1歩に、質入れは七朱にすることがきまった。
3月27日戸長から、帳簿調べをするので各村用掛、十戸長その他頭立候者は詰所に出頭すべき旨の達しがありました。取り調べの結果、地券税など種々の課金や県に納入されていない金銭を受け取り、そして戸長に対し頼母子講会減じ方、借金利子引き下げは馬見原村同様ということを認めさせ、9日ぶり4月4日に帰村しました

南郷谷(九、十小区)

九小区(高森郷)

3月2日上色見村で戸長が野開雑税を割賦しようとしたが、農民の苦情により不可能となりました。また、農民たちは利息引き下げを相談しました。高森村の寄合では学校建築寄付金の抵当として戸長に差し出していた地券証の下げ渡し、昨年の貢納の受取書検査を決めました。
3月3日高森村では借金利子引き下げについて、これまでの借金は無利息で10ヵ年賦、これらの借金は利息一歩で妥結、翌日約定書を取り交わす。
3月4日色見村では村用備籾代金を学校建築費に当てた残金や学校入費残金の割り戻しを用掛に交渉。7日に割戻しを受ける。高森村では地所書入の抵当に差し入れておいた地券証を取り戻す
3月6日上色見村では了蓮寺に集会。「役人退治万民之為」と書いた紙旗を申し立て、郷備金・野開増税などの取り調べのため戸長詰所へ押し出す
3月7日上色見村ではこの日から10日まで貸借悉皆捨方を要求して債主と交渉、借用証文を取り返す。色見村でも同様
3月8日吉田村ではホテが谷で集会、借金悉皆捨方について相談したが、意見の一致をみなかった
3月9日吉田村では小学校で集会、借金利下げなどを相談していると、十小区から入り込み吉田村で放火
3月10日白川村、吉田村で借金利子引き下げを要求。吉田村では約200人の農民が家屋巻き倒しの網や鉈、鎌、杖などを用意し各債主と交渉、小作米引き下げも要求した
3月11日吉田新町にあった抵当米を薩軍が掠奪
3月14日警視隊の一部が坂梨から吉田新町に進出。このころ南郷有志隊が結成される

十小区(長陽・久木野)

2月15日十一大区区長野田信道は河陽村内下野村人民地租改正入費についての苦情を聴取、十八日説論を加える
2月24日河陽村で元庄屋宅売り払い代、村備籾代籾代金精算を用掛に要求。
2月25日河陽村地蔵堂で村民集会。諸帳簿取り下げ、郷備金、民費予備金、温泉割賦金などの割戻しを要求して戸長詰所に迫る
2月28日河陽、長陽両村の農民は長野小学校に集会。行方不明の戸長探索のため河陰村へ赴く。中松では、明治6年分租税が同年凶作のため無税になったにもかかわらず戸長から下渡されていないことが問題となる
3月1日河陽、長野両村の村民は河陰村龍王社に集会。有力者長野一誠らが郷備金その他の件について5日間の猶予があれば調査するとしたので一任する。その際、農民が書き出した項目は、上納米代区々の取り立て、旧会所売り払い代金、温泉割賦金油水車売り払い代金、郷備金、民費予備金の割り戻しなどでした
3月4日長野一誠らが貧民の救助米を出すので一揆を中止するよう示談。その受け取りについては相談がまとまらなかった。阿蘇谷での借金証文捨方が中松村へ伝わる
3月5日河陽、長野両村では、あくまで不在の区戸長を探しだし郷備金などの割戻しを迫ることに決する
3月7日中松、河陽、長野、下市、久木野の各村から約500人が中松村字松ノ下に集会。債主へ証文捨方を迫る。河陽、長野両村では郷備金取り下げについて用掛と交渉。中松村では郷備金について正敬寺で集会。家屋を巻き倒す縄などを持参している者もいた
3月8日河陽村では「十小区人民中」と書いた布旗を押したて河陽、久石、河陰、中原など各村の債主に迫り打ち壊しを行う。翌9日も同様、連日徘徊中「所々ニテ合図且つ威シノ為空砲相放つ」
3月10日河陽村では戸長詰所にある質地書入証文扣帳を焼き捨てようと主張する者や、河陽村の垂玉地獄両温泉の戸主に迫り、十小区人民に限り温泉入浴は無銭にさせる
3月11日河陽村光雲寺に村民集会。債主から取り戻した証文を借主に返却
3月13日河陽村で郷備金割り戻し
3月14日警視隊の1小隊が坂梨から吉田新町に進出したのに対抗して、二重峠の薩軍は1小隊が坂梨から吉田新町に進出したのに対抗して、二重峠の薩軍は1小隊を河陽村黒川に進出させる
3月18日二重峠の戦い。河陽村黒川でも激戦。警視隊の佐川官兵衛大警視戦死。警視隊は敗北し、吉田新町から坂梨に退く

概略図(阿蘇谷)

参考

西南戦争と阿蘇

カテゴリ : 文化・歴史
索引 :

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