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豪潮の宝篋印塔

豪潮建立宝篋印塔(西巌殿寺・松野家・滝水)3基 (市指定有形文化財)

 宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、内部に「一切如来心(いっさいにょらいしん)秘密全身舎利(ひみつぜんしんしゃり)宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)(略して「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」)」というお経を納めた塔であることから、こう呼ばれています。宝篋印陀羅尼経には、一切の如来(にょらい)(仏様)の功徳(くどく)を念じこめた陀羅尼(だらに)(呪文)が記されています。これを納めた塔を礼拝することにより、罪が消滅し、生きている間は災害から逃れ、死後は極楽に生まれ変わると考えられています。
 日本での宝篋印塔の信仰は古く、平安時代までさかのぼります。鎌倉時代になると、石造の宝篋印塔が作られるようになりますが、本来の目的とは違って、公家や武士のお墓、あるいは供養するための塔として建立されることが多くなります。

 さて、阿蘇市には、市の有形文化財に指定されている宝篋印塔が全部で3基あり、いずれも「豪潮(ごうちょう)」が建てたものです。豪潮は玉名の出身で、その徳は遠近に伝わる高僧であり、加えて多数の書画も残しています。

 寛延2年(1748)に専光寺に生まれ、7歳で出家。16歳で比叡山(ひえいざん)に登り修行。20歳のとき、名を豪潮と改めました。28歳の時に帰郷し、寿福寺の住職となりました。その頃から高僧として知られ、宮中や各地に招かれて加持祈祷(かじきとう)を行い、諸大名からは帰依(きえ)を受けました。

 54歳になると、全国に8万4千基の宝篋印塔の建立を祈願し、2千基以上を建立しました。これだけの大事業を行うことができたのは、豪潮の法力(ほうりき)とその帰依者・支持者の層の厚さを伺うことができます。

 晩年は、尾張藩(現愛知県)の徳川斉朝(とくがわなりとも)に厚い待遇で重用され、87歳(天保6年(1835))で名古屋にて没しました。また、豪潮の形にとらわれない力強い書風は、現在も高く評価されています。

資料

宝篋印塔の各部と名称

写真

西巌殿寺(黒川) 文化2年(1805)建立 高さ約6m
※建立の際の滞在したお礼に自筆の絵画が送られています。

波野大字滝水 文化2年建立 高さ約2m

松野家(黒川) 文化12年(1815)建立 高さ約2m

参考

~文化財を大切に~  みんなで護ろう文化財


カテゴリ : 文化・歴史
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