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西原村

概要

面積位置範囲標高
東経北緯東西南北
77.23㎢130度254分10秒32度50分5秒9Km8.5Km~1,095m
町章
昭和52年8月27日施行
村花 のぎく
ノコンギクヨメナ、ユウガギク等の野に咲く菊類の総称でその中でも、うすむらさきのノコンギクが過半数を占めています。村内のいたるところに繁殖しており清楚、純粋、野性的、で忍耐力、生命力が強く、北風に吹かれながらも野辺でやさしく香る可憐な花です。
町木 どんぐり
一般に“どんぐり”はブナ科のカシ、クヌギ、ナラ等の木の実を指すが、本村では、特にクヌギの代名詞となっている。山、雑木林、田畑の畦畔等に多く見られ樹高20mにも達する。
町鳥 キジ
村内の山林、原野に数多く生息し、一年中観察することができます。まれには畑地に現れることがあります。雉は、色彩が鮮やかで大変美しく、昔から狩猟の対象として狙われて来たためか非常に用心深く、子育てがじょうずです。「焼野のキギス」の諺にもあるように、野火に自分の羽は焼かれても子供をしっかりと守るほどで、大変親子の情愛の深い鳥です。日本昔ばなしにも登場し、賢く勇気ある鳥とされています。

参考

熊本県大百科事典

西原村のなりたち

村にいつ頃から人が住んだのかは不明ですが、出土品から推測すると1万年前には人がこの地に住んでいたことは確かなようです。
縄文時代の石器が出土しており、弥生時代の青銅器、鉄器も出土しています。農耕文化が進むにつれて、狩猟、山の生活から次第に平地に移住したと思われます。
大化の改新(西暦645)大和朝廷は、全国に国と郡を置くが、山西地区は阿蘇郡となり、河原地区は益城郡となり、平安期(西暦794)に入ると、阿蘇氏の勢力は県下に広がり、鳥子神社を始め村内の各社に阿蘇の神が祭られました。
天正3年(西暦1575)島津氏が肥後に侵入したとき、鳥子城、門出城が落城。
細川氏が肥後の藩主となると、寛永10年(西暦1633)手永(てなが)の制度を設け、その役所を会所と呼びました。布田地区の上に史跡が今も残っています。
布田手永には南郷谷の西半分と、山西区が入り、河原区は沼山津手永に入る。手永には惣庄屋があり、庄屋、頭百姓などと農民の自治組織をしき、新所地区のような軍事を含んだ足軽鉄砲隊の村もありました。
幕末期(西暦1853)頃が産業・治水・土木等村として一番活動があった。宮山・下小森・布田に堤が出来、河原には新井手・嘉永井手が完成するなど、開墾・開田産業の発達に大きな力となったが、矢野甚兵衛による大切畑の堤の完成は、小森・鳥子方面の水田100haに及び広大な恩恵を与えました。各地区の観音像・薬師堂・地蔵尊・猿田彦大神等の建立がこの時代になされました。
明治4年には熊本県が置かれ、12年には郡町村制がしかれた。明治5年に学制がしかれ、7年には鳥子小学校が創立され、河原では田中の庄屋跡に創立されています。
昭和35年に、山西村と河原村が合併して、西原村が誕生しました。


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