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西南戦争と阿蘇

概要

阿蘇地方で薩軍と戦った政府軍は警視隊でした。二重峠や黒川口、滝室坂などが戦場になりました。阿蘇谷と南郷谷では有志隊が結成され、警視隊に協力する一方、薩軍の夫役に繰り出された者もいました。
薩軍が大津から二重峠へ進出した2月26日から、同所を撤退する4月21日まで阿蘇地方は薩軍の影響下にありました。この間、政府軍(警視隊)は2度にわたって薩軍を攻撃しました。二重峠・黒川口の戦い(3月18日)と滝室坂の戦い(4月13日)です。

豊後口警視隊

阿蘇地方の薩軍に対応した政府軍は警視隊でした。権少警視檜垣直枝が率いた590人の舞台が西京丸で横浜を出港したのは2月20日でした。
檜垣隊長が率いた警視隊は豊後から阿蘇地方へ向かったので豊後口警視隊といわれ、5番小隊から編成されていました。各小隊は、小隊長が半隊長2人・什長10人・喇叭手1人・巡査百人を指揮統率し、合計114人からなっていました。5人の小隊長のうち最も有名なのは1番小隊長長谷川官兵衛(一等大警部)です。佐川は元会津藩家老で、戊辰戦争では新政府軍と戦い敗北し、朝敵として厳しく処分されました。佐川にとって政府軍の立場から薩摩を討つことはまたとない機会でした。警視隊の中には会津出身者が少なからずおり、彼らにとって西南戦争は戊辰戦争で受けた処分の復讐でした。以下4人の小隊長は2番小隊長2等少警部吉田重郎、4番小隊長2等中警部圓乗豁、5番小隊長2等中警部倉内末盛でした。
2月23日西京丸は下関に停泊し、警視隊は小船により小倉に上陸しました。陸路中津を経て3月1日大分に到着、しばらく滞在して薩軍の情報収集にあたりました。特に阿蘇地方の動きを探るため探偵を各地に放ちました。その報告には、阿蘇の各地に「暴民あり。名ヲ郷備金割戻シニ託シ鐘鼓ヲ鳴シ区戸長役場に集リ、(ほしいまま)ニ富豪を掠奪シ、其勢甚ダ猖獗、巡査モ亦之ヲ如何トモスル能ハス」と農民の動きがほぼ適格にとらえられています。
豊後口警視隊は3月7日大分を出発、翌8日岡駅(竹田)に駐屯しました。10日には4番小隊(隊長圓乗豁二等中警部)を坂梨に進め、11日には本営を笹倉まで進めました。ここで土地の者に「炊事ヲ命スルニ其法ヲ知ラス。曰ク常ニ蜀黍ヲ食スト。山間ノ窮状想フベシ」と記されています。阿蘇の山間部では蜀黍を常食としていました。水田に恵まれず、火山や風水害による災害が人々を窮状へ追い詰めました。
3月11日、4番小隊は坂梨から内牧に進出し、翌12日には警視隊本営は笹倉から坂梨に移動し、二重峠による薩軍と対峙していました。

二重峠・黒川口の戦い

1番小隊の小隊長佐川官兵衛二重峠の薩軍が陣地完成以前に総攻撃を加え、熊本城を救援することを進言しましたが、実戦経験のとぼしい檜垣隊長(土佐出身)はこれを採用しなかった。そして内牧有志
隊の強力を得て情報収集や攻撃準備に時間を費やしていました。その間、二重峠の薩軍は3月14、15日には堅塁を築きあげてしまいました。その構築には薩軍は二重峠の麓の的石村などの農民を強制的に動員していました。
3月17日、警視体幹部は軍議を開き、各小隊を各地に配置し、檜垣隊長は内牧で指揮を執る体制を整え、総攻撃は18日夜明けとともに一斉に開始することに決しました。黒川口(河陽村、現・南阿蘇村)には1番小隊および5番小隊の半隊が配置され、二重峠には間道に3番小隊および2番・5番小隊の各半隊、そして正面に2番小隊半隊が布陣していました。
戦闘は夜明けから数時間に及んだが、薩軍が死守する二重峠を落とすことは出来なかった。地形的には峠の上部を守備する薩軍が有利でした。警視隊は午後2時頃には内牧まで撤兵し、二重峠口・内牧・坊中に防塁を構えました。この日の戦いで警視隊は戦死者31人、負傷者29人、行方不明者5人の犠牲者を出しました。
この日、黒川口で指揮を執っていた1番小隊の小隊長佐川官兵衛も戦死しました。
黒川口の薩軍は情報によると50余人といわれていました。佐川は髭を剃り商人風に変装し、自ら探索に出て地形を探り作戦を練りました。3月18日、南郷有志隊40余人の先導で警視隊140余人は吉田新町を出発し、黒川口へと進撃すると、薩軍は240人から250人に増加していました。薩軍は大津から一夜のうちに兵を増強し、警視隊の攻撃に備えたのでした。
黒川口の薩軍は2番大隊5番小隊長鎌田雄一郎が指揮を執っていました。戦場鎌田と佐川がばったりと出会い、両者抜刀して一騎打ちとなりました。真剣勝負のさなか、一揆農民の小銃が佐川官兵衛を狙い撃ちました。「長野惟起日記」に「村山の揁蔵孫唀、薩州勢に加はり新町陣の大将を黒川の高野の上にて討取候由」と記されています。
鳥羽伏見の戦い以来、会津藩家老として戦場の第一線で指揮を執り、家臣たちから鬼官兵衛と慕われていた佐川官兵衛は阿蘇の南郷黒川口で、一揆農民が放った銃弾に45歳の生涯を閉じることになりました。

滝室坂の戦い

3月18日の二重峠の戦いで敗れたものの警視隊は坊中・内牧・宮地・坂梨を確保していました。その後、軍議で二重峠再攻撃案や隈府町(現・菊池市)出撃案が出されたが、いずれも実現しませんでした。4月3日警視隊本営は竹田町(現・大分県竹田市)に後退、内牧・坂梨の有志隊もこれに従いました。そして4番小隊は坂梨、1番および3番小隊は久住に駐在していました。4日には中津隊が小国を掠奪して二重峠の薩軍へ合流しました。7日警視隊は竹田の本営を片俣村(現・産山村)に移し、4番小隊を笹倉、1番小隊を久住に配置し警備にあたらせました。この頃になると阿蘇谷の村々では有力者や村役人などは家族とともに小国方面に戦火を避ける者が続出しました。その数700人に及びました。10日二重峠の薩軍は坂梨に進出(12日現在200人余)、大黒屋を本陣として、滝室坂の豆札坂、馬場、新松山口、箱石口、イボ石に台場を築き始めた。
4月13日早朝、警視隊は滝室坂による薩軍の総攻撃を開始しました。増強された各小隊の部署をみると、4番小隊は滝室坂の正面、3番小隊は右翼間道中の山鹿口、一番小隊は左翼小池野より攻撃、2番小隊は本道より左右翌の応援、5番小隊は正面右側の山により諸隊の援護、6番小隊と7番小隊は予備応援の遊兵として配置されました。
13日午前6時を合図に各小隊は一斉に攻撃を開始しました。薩軍は滝室坂頂上左右の円塁および正面本道の胸壁により防戦に努めました。銃弾が飛び交うなか4番小隊什長の警部補赤塚武盛は左翼山上の塁に突入、巡査4,5人もこれに従い、敵類を占拠しました。これをみて各小隊は本道および右翼山上の塁を攻めたて、これを落としました。
さらに坂の上から薩軍を迫撃し坂梨へ攻め下りました。薩軍はこれに耐えきれず八ヶ所の塁を放棄して敗走、二重峠へと後退しました。警視隊はこの日戦死者4人、負傷者17人を出した。主な戦闘の場所は坂梨村の滝室坂、馬場坂、願成就坂、北坂梨村のえざり坂でした。

笹倉放火

4月15日、久留米の市川正寧から発信され、木葉(現・玉名郡玉東町)に滞在していた石井省一郎(権大書記官)宛の電文に次のように記されていました。

去ル13日坂梨峠ニテ開戦、我兵抜刀ニテ切入、大ニ賊ヲ敗リ賊塁八箇所ヲ取、内牧坊中迄進ム、賊ノ脱徒笹倉村ヲ焼、南郷に向ケ遁ルト、大分県ヨリ報知とあります。滝室坂の戦いに敗れた薩軍の残党十余人は笹倉に逃れ民家に放火しました。ただちに4番小隊の半隊が薩軍残党を追撃しましたが、彼らは南郷を経て逃亡し二重峠の薩軍のもとに走りました。
この放火により幸い住民235人(48戸)に死傷者はなかったが、家屋・家財道具すべてが焼失しました。消失した建物127棟の内訳は、居屋48棟、厩53棟、釜屋1棟、物置9棟、土蔵7棟、社3社(菅原社2、八幡社1)、板蔵5棟(村備板蔵など)、戸長詰所1棟でした。この外郵便局も焼け、馬一頭牛9頭が焼死しました。
熊本県では、被災者にさしあたり、仮小屋のための竹木と1日1人玄米二合5勺の救助米を30日間支給し、1世帯10円の手当金を与えました。

参考

西南戦争と阿蘇

カテゴリ : 文化・歴史
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