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西南の役(阿蘇谷の攻防と滝室坂の決戦)

 明治10年2月、1875年 135年前、政府が、鹿児島県内の弾薬庫を県外に、移送し始めた事と、政府派遣の密偵に依る、西郷暗殺の計画が、発覚したことにより、西郷私学校生徒が、激怒爆発して発展した西南の役は、2月から9月24日まで、熊本県内を主戦場に、激烈な戦ひが繰り広げられたのである。

 一般的には田原坂や熊本城の戦ひ等が、主に知られて居り、二重の峠、立野黒川口の戦ひ、そして滝室坂の決戦等は、知る人ぞ知ると云った所かも知れません。そこで滝室坂の決戦について、語って見たいと思ひますがこの事を伝へるについては、顕彰舗発行の敬天愛人号より、部分的に引用、又、戦跡史料等、当地の古老等の話を之に記すものである。

 「西南の役伝記に依ると、「飫肥小なりと雖えども、国家の大事に際し、豈、黙々座視するを得んや、宜しく速かに、其の同行を乞い、途上の不慮を警め、進めて君側を掃清し、○つ「政府の改造を期せざる可からず」領内に此の様な通達をだし、主に島津藩より応募して来た、2千余名の中から壮士を選び、3小隊を編成、2月19日、宮崎県清武を出発した薩摩隊は、延岡、高千の険を越え、23日、三田井に宿す予定であったが、熊本での開戦の報に接し、24日、馬見原を通り、弾薬百発づゝを背負ひ、残雪消せざる高森峠を下り、白水久木野を通り、俵山峠を越え、25日夜には熊本市保田窪に到着せり。また、26日には、日州のひ岡勢(延岡)5百人余りは、高森に泊まり、熊本の様に俵山峠を越える。28日には、日向佐土原勢2百人余り高森に泊り、熊本の様に俵山峠越えに通るとある。此の俵山峠は、熊本城下に馳せ参ずる、薩軍や、戦ひ利ならずして落ちていく者それを追って政め上がり、政め下る、官軍兵士らが踏み越えていった道でもある。一方、2月10日東京を発って、長崎、熊本へ派遣された警視隊に次いで、第2陣として、2月19日東京を発った警視隊は、23日、福岡県小倉港に上陸して大分に向かった。是れを豊後口警視隊と称し、権少警視、桧垣直枝指揮する590名の警官隊である。これは云う及ばず警視庁警官隊である。此の警視隊は、当初大分、熊本地方の、治安維持が、目的であったが、戦闘の激化に伴い、広島の鎮台から、銃弾薬を補充して、阿蘇地方に展開し、戦○あらば、熊本入城を目的として居た。一方、薩軍の熊本侵入と呼応して激しさを増してゐた阿蘇地方の農民一揆を押へるのも任務の一つでもあった。新しい政策に依り課税が増大して、政府への不満が募ってゐた。また、山鹿植木方面では、末端役人の区長戸長等の公金流用等に反対する、熊本民権党に、扇動された農民運動が各地に飛大し、特に貧富の差が著しい阿蘇地方では特に激しく、打ち壊し等が行われる程であった。こう云う情勢の中で、薩軍、官軍が阿蘇地方に進攻して、貧しい農民層は薩軍に味方し、富裕な商人や地主士族等は官軍に味方した。中略、薩軍の阿蘇谷進出は3月14日とあるが、豊後○崎街道より警視隊進入の報を受け、薩軍は熊本の本管より、佐藤隊第二番大隊四番小隊、鎌田隊第二番大隊五番小隊に命じて防○せしむとある。両隊命を受け熊本を発ち、鎌田隊は立野黒川口、坂梨街道に、佐藤隊は大津より二重の峠と進み、新道古道、小玉街道に塁を築き守備せりとあり、猶、佐藤隊長は近衛兵大尉鎌田雄一郎は陸軍中尉とある。又、これ以前に、二重の峠には薩軍の一部が駐留して居たと思われる。又、2月26日から、4月21日まで、阿蘇地方は薩軍の影響下にあたったと云ふ。中略、又、警視隊戦闘日誌3月2日の項に「大警視ニ西京ニ申シテ曰ク賊兵ヲ熊本県二重の峠ニ出セリ乃チ時宜或ハ進○セサルヲ得サルヘシ 3月6日の項にも、偵報アリ曰ク二重の峠ノ賊初メ2、3百ニ過キス今漸ク其ノ数ヲ加ヘ、土塁教所を険要ニ設ケ一意大分ヲ突カントス乃チ議ヲ決シ明亘ヲ期シ全隊坂梨ニ進マントス川路警部先ヅ発ス、とある。中略、西京にある大警視は、川路利良である。豊後口警視隊指揮長桧垣直枝は、西京にいる川路利良の指揮を受け、川路は、大久保利通の指揮を受けてゐる。豊後口警視隊は、3月10日から3月12日にかけて阿蘇入りし、本管を坂梨村に置き、第四番小隊を内ノ牧に第一番小隊を吉田新町現南阿蘇村吉田に配置せしめた。

 此の時期農民一揆もピークに達し、肥後笹倉、坂梨、南郷、宮地、宮原、小国、内ノ牧、坊中等ノ諸郷ニ暴民アリ名ヲ郷備金割リ戻シニ詫シ鐘鼓等ヲ鳴ラシ区長戸長等役場ニ集リ、恣ニ富豪ヲ掠奪シ其ノ勢イ甚ダ猖○(狂う)巡査モ亦之ヲ如何トモスル○ハス其ノ○ハ郷士ノ賊ニ党シ教導隊ニ在ル者ナリキと、この様に一部の郷士や農民者指揮者を先頭に、数百人多いときには千人規模で、役人、地主、金持ちの家に押しかけ、自分達の要求を呑ませ、諸証文を取り返し、其の家に泊まり込み、要求を拒否されれば打ち壊しをする状況であった。
又、南郷谷の郷士の殆どは、明治維新後の富裕者で、金銭や米を寄附して取得した、いわゆる寸志郷士で、新しい大区、小区の役職についゐたが、有志隊を結成して、警視隊に協力力した。中略、二重の峠、黒川口の戦ひに敗北した警視隊は、坂梨村現坂梨に暫く在して居たが、大分中津の士族の爆発等があり、4月3日には本管を大分県現竹田市に移した。その間薩軍との小競ひもあったが、一部小隊を中津方面へ派遣してゐる。一方薩軍は4月7日に立野黒川陣より坂梨村進出、当村の造り酒屋、大黒屋田代信夫氏宅に本陣を置き、滝室坂決戦に備ヘ、周辺に陣地を構築し始めた。一方豊後口警視隊は3百名余りの警視隊援軍を得て、滝室坂攻○の準備を進めた4月13日、桧垣警視以下7小隊7百名余りからなる警視隊は、午前3時本管竹田を出発笹倉を得て滝室坂頂上付近に兵を進めた。又薩軍も、峠本道に胸壁を築き頂上付近に円塁を築き防戦に備えた、又、鎌田隊の一部は、馬場坂、豆札坂と二手に別れ登り、官軍を挟み打ちにする事にあったが、多勢に無勢、攻防数時間薩摩隊に耐え切れず、遂ひには黒川口、二重の峠方面へと敗走して行ったと云ふ、又12日夜は決戦の話で、地元住民は一睡も出来なかったと云ふ、当時の阿蘇神社宿直日誌、古文書にも書かれてゐる。

4月13日美晴  宿直:宮川清人  同:宮川宗正

 出勤早朝ヨリ吉瀬直種 草部学 宮川千尋 宮川宗正 宮川深 宮川清人 第6時頃ヨり銃声相聞第8時頃ニ至り銃声益々烈敷 ○○山上、馬場坂、豆生田坂、滝室坂ノ東ノ方○々両軍鉋戦煙り相見候○とある。此の決戦で官軍の戦死者4名負傷者17名とある。薩軍の死傷者は記録に残ってゐないが、慰霊碑には6名の名が刻まれてゐる。敬天愛人号に依ると、此の外に多数の死傷者が出たのではないかと書かれてゐるが、地元部落の古老の話として、数年過ぎた頃にも、多数の人骨薬莢等が散乱して居た云ふから、多数の死傷者が出たのは想像されるところである。敗北した薩軍兵士は、杉尾渡瀬之甚之助宅に落来し、飯を炊かせ食ひ、夜中に黒川之○に、二人馬を取り行候事とあり、また薩軍申候○に、昨日朝飯食ひし後は、何も食い不申と云ふに依って松尾の家より、粟飯、団子汁、麦飯等を持ち寄り食せ候由と云う、猶、黒川の戦並びに滝室坂の戦ひに北坂梨部落から、市原森平、坂梨仁平の二人が官軍方として参戦してゐる。敗れた薩軍兵士は食糧は欠乏し、近隣部落に食糧を求めて回ったと云われ、筆者宅にも、3人の兵士が訪れ、米麦等を調達した後、庭にゐた鶏を刃で芋差しにして二人の兵士が、戦ひはもう終わった、是れは、代りにおいて行くと云って、銃剣二振り(写真)を置いて行ったと云ふ。この話は、当時4歳であった、古老の話であった。

 話はさか登り、2月10日前後に発生した、農民一揆は、内ノ牧地区の業屋地主等の家を壊し、二手に別れ、一隊は乙姫坊中方面へ、一隊は、中通村宮地町方面へ流れ、中通井手業屋等と壊し、宮地方面へ向かった一隊は角屋三古屋等外の業屋を壊し、其の后、二手に別れ一隊は、宮地泉村、坂梨村へと、又、一隊は北坂梨村から三野村へとの情報を聞いた、北坂梨村の江藤虎○、坂梨改助、田島茂十の三人は、現江藤哲治氏宅。当時は作り酒屋があったと云ふから、酒樽を買ひ、坂梨橘喜氏宅前の十字路に置き、一揆連中が到着するのを待って、御苦労であった、力付けに一杯やって来れと云って酒盛りをしたと云われ、一揆連中も疲れもあってか、遂ひに誘われ、酒に強い者弱い者酔ひが回って、三々五々日暮れの道を、又、宮地方面へと帰って行ったと云ひ中には酔ひ潰れて道端の草村に翌朝まで寝て居た者も居たそうです。其のお陰で、三野村方面の打壊しは免れたと云います。

 そう云ふ農民一揆も終末を迎へ、4月21日阿蘇地方での戦ひもおわり薩軍の木山本管が矢部浜町移ったのを期に阿蘇○管も矢部の方引き上げ阿蘇地方にも漸く春の兆しが見え始めたであろう。又薩軍引き上げに伴ひ、農民一揆の加者の逮捕が始まり 罰金刑が殆どで、8人が無期懲役其のうち7人が獄死してゐる。(此の頃郷士誌等の資料より)

 今改めて、薩軍指揮所跡に建てられた、慰霊碑を近所に住んで居られる道野さんの案内で知ることが出来たのだが後の方に、
百周年を迎へ、注時を偲び、感無量、一の宮、波野両町村及び有志各位の賛助を得て、この石文建立す 其のあとに、
又、坂ノ上、(③)馬場滝室に顔成就坂膝行坂上、攻め守る、つわもの哀れ西南の役、とある。顔成就坂とは、坂梨神石部落の上の旧牧道で膝行坂とは北坂梨部落の旧牧道である。

 当時を偲び、意義深いものを感じながら、更ける想ひで眺める東外輪のやまなみ、今では何事もなかったか様に、たゞ四季折々に大自然の美しさを見せてゐるだけである。

文責(著者)

一の宮町北坂梨 坂梨増実

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