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行政区とその変遷

地名「あそ」

『日本書紀』の景行天皇記の中で、この地に来た天皇の前に現れた阿蘇都彦・阿蘇都媛の二神の名から、「あそ」の地名が生じたという伝承を伝えています。地名のあるところには人々の生活があります。生活の場を識別するためには地名が必要で、地名に対し共通の認識あるところに社会の秩序があります。
阿蘇都彦・阿蘇都媛の背後には、二神を土地の神として崇める人の社会がありました。阿蘇という地名は、紀元前後から存在していたとみられる「あそのくに」に由来するものです、その支配の範囲を示していたと考えられます。

郡・郷のはじまり

多くの小国家とともに阿蘇が大和朝廷の支配下に入り、国王には国造の称号が与えられ従来の支配が認めたれました。しかしその地位は中国の律令制度を取り入れた政治改革で大きく変わりました。地方制度では国を設け、その下に郡、郡の下に郷・里が置かれました。そこで国造の国の多くは郡に位置づけられ、国造は郡司として国を支配する国司の下で地方の一役人となり、従来の国王の伝統は失われました。郡の下では公民(農民)50戸を一里としてまとめた微税の単位があり、またこの郡と里の間にいくつかの里をまとめた郷が設定されました。『和名類聚抄(平安時代中期に作られた辞書。承平年間(931年-938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。)』の中には、諸国の郡郷が記されていますが、阿蘇郡は波良郷・知保郷・衣尻郷・阿曽郷の四郷で構成されています。これらの四郷の範囲は特定できませんが、阿蘇谷・南郷谷・小国と北部外輪山系・南部と東部の外輪山系の4地域を指す可能性が推察できます。

新郷村の形成

平安時代の中期以降は律令制度による地方統制力がゆるみ、国司の行政や微税の権限の及ばない「荘園」が増加しました。肥後第一の神社として『延喜式』にも記されている阿蘇神社も、この情勢の中で阿蘇郡を阿蘇社の神領とすることに成功し、その権利を守ってもらうために、都の天皇や貴族の私の力を借りました。国司が国からの収入で官社に捧げていた祭料や造営の負担は、阿蘇社が自分で地元の阿蘇郡から取り立てることになりました。阿蘇社領(阿蘇荘)の成立
そこで阿蘇社が自分の支配する地域から収入を取り立てるために作った組織が新しい郷でした。阿蘇谷では低地と山麓斜面の接点に集落が存在している場合が多く、その前に耕地が広がっています。生活の拠点である集落地名をとった南坂梨郷・北坂梨郷・手野郷・野中郷・阿蘇品郷という地名郷が定められました。この時の郷名は現在も大字・小字地名として存在しています。坂梨・北坂梨・大門・豆札・手野・野中・阿蘇品・井手などはその例です。
さらにこれら地名郷を地域的にまとめた北郷・東郷・西郷の三大郷が建武二年(1335)の記録に現れます。
そして鎌倉末期には、地名郷以外に村が現れます。この村は郷が10町50町と大きな田地を持つのに比べ5町以下の田地を持つ小規模なもので、開発によって新しく生まれた集落と耕地が神社の収入源として追加されていることを示しています。これらの村々も、地名郷と同じく現在も地名として残っています。広石・久家(古閑)・大篭(尾篭)・産山・山鹿などはその例です。
この郷村は阿蘇社の祭祀と造営を支える行政区画として、中世を通じて存続しました。

村と手永

近世の村は太閤検地以来定められた耕地と集落から成り、当時の村は現在の大字とほぼ一致しています。この村域(大字)は、中世以来すでに形成されていた小字群を場合によっては分断して設定されたものでした。
江戸前期正保3年の「肥後国郷帳」では、現一の宮町の地域は七村から成るが、『肥後国誌』では、手野・尾篭・井手・中原・下原・三箇・野中・宮地・坂梨・北坂梨・古閑の11村が石高のある村として記載されています。
石高とは村の生産高を米に換算したもので、これが課税の基準となります。従って石高を有する村は行政上正式に支配対象となる村であり、ない村はこれら石高付きの本村に含まれる小村でした。
また『肥後読史総覧』所収の「肥後藩主永別村名一覧」では、本村12村・小村67村となっており、時代により本村の消長、すなわち分村や合併も生じていたことが分かる。
これらの村々を地域的にまとめた行政単位が「手永」と呼ばれ、肥後藩地方行政の重要な単位となっていました。江戸時代後期の阿蘇郡は、布田・高森・菅尾・野尻・内牧・北里・坂梨と七手永に分かれていました。この数は他郡と比較すれば多い方に属し、阿蘇が広域の山間地に分かれていたための行政的便宜によると考えられます。この手永には手永会所があり、任命された惣庄屋が赴任して管内の村々の支配に当たりました。坂梨手永の行政区が現在の一の宮町の行政区域にほぼ一致しています。

明治維新と大小区

明治維新により廃藩置県が行われ、地方行政組織も大きく変化しました。明治政府は戸籍編成を企画し、そのために明治5年に区画した地域の住民を登録しました。正確な国民の実態を把握することが、以後の日本近代化進行に不可欠なことでした。
そのために、まず肥後北部熊本県では33大区を定め、その下に敵数の小区を設定しましたが、これらの区名に地名は用いられず、数字順の番号が充てられました。
一の宮町に当たる旧坂梨手永は第26大区となり、その下に四小区が設けられ、大区には戸長、小区には副戸長が任命されました。一方行政の上では旧手永や村の支配が行きており、旧庄屋が村政をまかされ、惣庄屋の代わりに里正が任命されていたが、結局一本化され、その年の内に戸長が里正に代わって行政をも兼ねることになりました。この大区はその後統合され、明治八年には第二十六大区は第十一大区の第三小区に改められました。この大小区制は明治十一年に廃止され、なじみある村名が正式の行政区名として復活しました。

町村制と合併

大小区制が廃止となって現れた村名は、坂梨・三野・手野・中通・宮地の五村であった。大小区制定以前の坂梨と馬場が坂梨村となり、上三ケ・下三ケ・古閑が三野村。手野・尾篭が手野村となり、東下原・西下原・中原・井手が中通村、東・西・南・北・分西宮地の宮地村と四分一村が宮地村となり、村の合併が行われました。
このように、江戸時代の村々は明治以降の地方行政の進行の中で、全国的に合併が進行し広域の行政単位となっていきました。そして県と町村との間に明治27年以来介在していた郡会・郡役所の行政的役割が低下し、大正12年には郡制は廃止されることになります。
明治22年、三野村と手野村が合併して古城村となって以来、現一の宮町のもととなった四町村はその間、明治34年に合併の動きはあったものの結局、第二次大戦後までその行政区域を50余年間存続させてきました。このことはその間に相互の極端な人口・産業等による町勢・村勢の盛衰がなく推移したためでもあり、また全国的に見ても、地方制度の近代化政策の成果としての安定期に当たっていたとみることもできます。

参考

阿蘇一の宮町史 戦後農業と町村合併

カテゴリ : 文化・歴史
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