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肥後の維新

概要

寛永6年(1853)6月、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが率いる艦隊(黒船)が浦賀に来校しました。鎖国日本は外国の圧力により激震にさらされました。肥後藩は相模沿岸の警備(1853年11月~1863年5月)へ出兵しました。幕末の肥後藩は長州藩征討のため小倉へ出兵し、親幕府の立場をとり続けていました。王政復古の大号令(1867年)により徳川幕府は崩壊、新政府が成立し、戊辰戦争・版籍奉還・廃藩置県によって中央集権の政治体制が確立しました。明治維新という大変革の時代を迎えました。
明治2年(1869)6月17日、領地と領民を調停に還す版籍奉還によって藩主細川韶邦は熊本藩知事となり、肥後藩は熊本藩が正式名称となりました。同月25日、政府は各藩知事に諸務変革(藩政改革)の命を下したが、熊本藩では旧態依然として保守派の学校党が藩政を握っていて改革は停滞していました。同3年3月、韶邦は病気を理由に隠居し、家督は弟護久が相続しました。親実学派の知藩事細川護久は弟の護美を大参事とし改革に着手しました。
まず、保守派により占められていた藩首脳の人事を一新し、実学党系の藩士や豪農を登用しました。米田虎雄・道家之山・津田信弘・安場保和・山田武甫・大田黒惟信・嘉悦氏房らが登用され改革を推進しました。豪農の徳富一敬、竹崎茶堂は民政局大属に抜擢されました。
改革の方針は徳富一敬と竹崎茶堂が明治2年の秋、収穫で忙しい時期に、玉名郡横島村九番開の竹崎家にこもって作成しました。

主な項目

  1. 治教の根本-三百年来の周弊を破り簡易無造作にし、細川家一族の親愛の情を尽くすこと。知事自ら日々政事堂にでて万機を聞き、庶民から直々に情理を聞くこと。
  2. 封建的権力の撤廃-二ノ丸並びに宮内御殿、御城天守などを取崩し、外回りの門塀だけ残すこと。御鷹場は一切開放のこと。
  3. 経済的救済-枝葉の雑税(上米、一歩半米、口米、諸出米銀)の廃止。諸拝借及び会所官銭貸付は一切捨方。
  4. 領主的支配機構の解体-会計諸官を廃止し会計局のみを残すこと。会所役人の削減。御役人及び御惣庄屋以下在役人は入札公選のこと。
  5. 藩に二院(議会)の設置-上院の議員は知事以下執政などの諸役人、下院の議員は四氏の差別なく入札公選による。下院は上院と相対し諸務を議すべし

これらのうち役人の公選と藩議会の開設は実現しなかったが、ほかの項目は実学党政権の時期(明治三年5月~明治六年5月)に何らかの形で実現しました。雑税廃止は「肥後の維新」の中心的な内容となっています。
また、藩校時習館、再春館(医学校)、洋学所を明治三年7月に廃止し、教育改革に着手しました。新たに古城医学校(明治三年10月)、熊本洋学校(明治四年9月)を熊本城古城に開校しました。
医学校ではオランダ人医師マンスフェルトが西洋医学を教え、洋学校ではアメリカ人教師ジェーンズが英語で本格的に洋学を教えました。医学校からは北里柴三郎、緒方正規、浜田玄達、洋学校からは海老名弾正、徳富蘇峰らのほか阿蘇郡から宮川経輝(宮地村)、市原盛宏(宮地村)、山部経賢(手野村)、蔵原惟郭(黒川村)らの人々が輩出しました。
廃藩置県(明治四年7月14日)により細川護久藩知事は罷免され、東京に移り住みましたが、改革は権大惨事山田武甫、小惨事林秀謙らが中心となり推進していました。しかし、明治6年5月、安岡良亮が白川県権令となり赴任してくると、実学党系の県官は罷免され、「肥後の維新」は終りを迎えます。

参考

西南戦争と阿蘇

カテゴリ : 文化・歴史
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