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犬飼真平
更新日: 2015-10-09 (金) 17:07:55 (3093d)
概要
犬飼真平とういう人物がいました。阿蘇に鉄道を画策し、3年間の短い期間ではありましたが、代議士も務めました。
自叙伝には次のように記してあります。
「君は熊本県第三区選出代議士なり。安政元年10月
宮地村長
犬飼が衆議院議員補欠選に当選したのは明治32年(1899)7月。その任期は3年にも満たなかった。「鉄道会社の重役」とあるが、それは幻の鉄道に終わった東肥鉄道のことと思われます。
犬飼の出生地である阿蘇郡岩坂村は阿蘇外輪山の西側にあり、現在は菊池郡大津町に属します。旧姓は野尻。大津の寺子屋に学んでおり、純粋の「あそんじょう」ではなかったが、宮地の大地主、「角屋」の当主栗林東一郎の実姉マキの後婿となり、同じ屋敷内に暮らし、「中角」と称しました。マキには前夫との間にミツという娘がいました。いわば入婿の様な形で真平は栗林家に入り込み、阿蘇家に縁の深い犬飼姓を名乗りました。
安政元年(1854)生まれだから、15歳で明治維新を迎えました。自叙伝によれば、子どものころから手のつけようがない乱暴者だそうで、上京し、「東京巡査」となり、西南戦争後、帰郷します。高森、馬見原で警察官をした時期があり、「中角」を継いだのはそのあとのことと思われる。「角屋」は栗林家の屋号で、坂梨の「虎屋」と並ぶ一の宮の豪農。大正13年(1928)の資料では87町及ぶ田畑を有していた他、明治10年の阿蘇一揆で襲撃された時点では造り酒屋、金融業なども営んでいました。「虎屋」の菅家の方が田畑は多く、143町に上った「角屋」の当主、東一郎の妻ワカは内牧(現阿蘇町)の大地主「仲屋」の佐藤家から嫁いできました。この三家は政党支持も同じ国権党でした。
ちなみに国権党は、明治新政府に仕えた米田虎雄、安場保和らが郷党に組織させた政治結社、紫溟会を改組したもので、その首領株は佐々友房、古荘嘉門、津田静一らで、阿蘇からは久木野村の長野一誠がいました。それに対抗するものが改進党で、首領株に山田武甫、嘉悦氏房、古荘幹実、広田尚らが名を連ねました。
阿蘇にはL・L・ジェーンズの洋学校に学ぶ者が多く、彼らは実学派-改進党に連なったが、国権党が次第に勢力を上回り、北里柴三郎の故地小国郷を除き、「国権党王国」となりました。
犬飼は2代目の宮地村長を務めることになります。大火で自宅も含めて町部が消失したのを機に区画整備を断行し、宮の馬場-田島間の新道を造成する。さらに県会議員として西岳川の改修、宮地―内牧間の大小の橋梁架設を行っています。また、原野払戻運動に東奔西走して、造林にも力を入れる。鉄道事業にのめり込み、あちこちに借金し、栗林家一族の一部には「山師」的人物としても記憶されています。
猿猴のごとく
自叙伝のなかで犬飼はこう述べています。
「阿蘇の今昔、僕等壮年時代は熊本城下士族その他より阿蘇人を軽蔑することは名状すべからざるもので恰も猿猴の如くあしらへり」
昔時の言葉に「あそんじょう」に「南郷ぞふ」、「合志のもの」に「菊池のお人」といった。これは「田舎の階級」を示すもので、菊池を第1とし、合志(元の合志郡大津)を第2、そして阿蘇、南郷を劣るものと見なした。熊本城下の武芸師範に免状をもらいに出かけ、犬飼は言われたそうです。「君等の家には床の下には狐狸が児を育て、君等は常に狐狸と同棲すると聞く。果して然るや」
ある時、犬飼の友人が熊本城下に武芸の稽古に通うため、1夜塘を歩いていたら、士族2人が路傍にたむろし、煙草を喫っていました。ちょうど通りかかったその友人が腰に差していた刀のつかに、たむろしていた士族の1人がキセルの先をたたき、灰を打ち出しました。それを聞いた犬飼は自分が侮辱されたように怒り、「一刀を抜き打ち、なぜ、斬らなかったか」と友人を責めました。それもこれも「あそんじょう」だからばかにされる。「彼らに臨むには、教育と殖産を振興し、地方発展を図るしかなく、地方の発展は鉄道の速成にあり」と犬飼は決意するのです。
「阿蘇は往古より道路険悪にして交通の便すくなく、外輪山に包まれたる村落は四方屏風を立てるが如き。其中に生活し道路は僅かに二重の峠と俵山越しの峠道とあるのみにて他に道路は名つくる程の路としては一もなく、貨物の輸出は馬背に任るの外なく、米俵は重量を減するため三斗にして之を二俵程馬に駄し、木材は之も重量あるものは輸出すること能はず。総て之を板又は小割に製材して輸出する外なく如何なる良材あるも輸出する能はず。如何に霊地寶山あるを似て誇りとする阿蘇人も之には大々的閉口するは当然なるには関はらす、多数の阿蘇人は阿蘇を一国の如く心得、霊山宝山を利用して社会の発展を図るものなく、徒らに太平を謳歌し徒食に安し、社会の日進月歩は対岸の火の如く考へ、知識階級の世に後るる数等にしてじ恰も西蔵国の如き感なきにしもあらず。実に慨嘆に耐へざらんや」
犬飼は阿蘇を肥後の再蔵国、チベットとして見なしたのです。
阿蘇のカルデラ内には中央火口丘を間に挟み、黒川と白川が流れています。その二筋の川は立野瀬で合流し、白河となって熊本平野を潤し、有明会に注ぐが、立野瀬には滝となって落ち、木材をいかだにして流すことはとてもできない。まったく水運の用をなしませんでした。小国が林業の先進地となったのは、筑後川上流から日田にいかだで木材を出せたためです。
阿蘇郡内有志に豊肥線建設の声が上がった明治18年(1885)は福岡県令安場保和が九州鉄道民設許可を上申する1年前でした。全国的な”鉄道熱”の高まりがそのころすでに阿蘇の僻地まで及んでいたというわけだろうが、長野は明治21年6月、豊肥線敷設の議が起こり、委員として実地踏査、大分県との交渉、協議に当たったといい、具体化したのは21年ごろでした。
海岸線では外国軍艦の砲撃にさらされるという軍の強い意見もあり、松方第一次内閣は明治25年6月20日公布の「鉄道敷設法」に大分ー熊本間を第2期予定線に組み入れました。27年1月、沿線の測量と旅客、貨物量の調査をしています。
当時、手野越えのコース、あるいは南郷を越えるコースも検討されており『長野一誠翁伝』によれば、翌27年2月6日、石丸は南郷の調査のため俵山を越えて、長野家に立ち寄っています。
しかし、外輪山の断崖絶壁を目にすれば、だれもが二の足を踏まざるを得ませんでした。明治27年8月1日、日清戦争が勃発、翌年4月勝利してしまえば、海岸線への不安はなくなり、豊肥線建設も棚上げになってしまいました。
東肥鉄道会社
そこで九州鉄道の春日駅から合志郡大津町まででも民設の鉄道を建設しようということになりました。大津は藩政時代からの物資の集散地で阿蘇郡の年貢もここに牛馬によって運ばれていました。
「性急成る地方の有志等は斬くの如き待ち遠き事を拱手して座視するに忍びず、明治29年に至り豊肥線の一部熊本―大津間に鉄道を敷設する為、東肥鉄道株式会社を創立し、株数1万株50万円の会社にて許可を得て直ちに定款を作り、総会を開き、順次役員選挙を行ふた。重役に岡崎唯緒、中村才馬、糸永速水、大谷高寛、宮田武平太、それに僕とが当選された。互選の結果、岡崎唯緒氏社長に、宮田武平太氏会計課長に、大谷高寛氏庶務課長に、僕は建築課長に献立が出来た。そこで先に線路踏査に雇いたる九州鉄道技師の小野琢磨氏を聘して工事の担当を頼み、実測に着手し一気呵成に其速成を急いだ。株式証拠金1円払込に対して5円にて売買した位にて頗る好景気であった」と自叙伝にあります。
大津町を起点に原水村、上立田村、下立田村、九品寺村の4ヶ所に停車場を設置し、九州鉄道会社の春日停車場(熊本駅)に接続する計画でした。現在の豊肥線と同じルートです。
1株50円、株式総数1万5千株、資本金75万円の予定で、貨物運賃49,367円、乗客運賃17,910円余りの営業収入が見込まれ、営業費16,607円余りを差し引くと純利益50,669円余りが計上されています。
この計画を引き継いだのが東肥鉄道株式会社です。
1株50円、1万二千株の発行が予定され、明治28年11月18日付けで出願し、翌29年5月13日に仮免許が公布され、7月9日には熊本市新町の忘吾会舎で創業総会が開かれています。237人が出席して、会長に九州商業銀行頭取の上羽勝衛、取締役に岡崎唯緒、中村才馬、糸永速水、犬飼真平、宮田武平太、山内栄作、監査役に大谷高寛、長野一誠、古閑信喜を選出しています。発起人の顔を見ると、改進党(政友会)と国権党(憲政会)の両派から出ており、超党派的な陣容でした。
会社設立登記の日から満3年以内に敷設工事を竣工するように定められていました。敷設工費は60万円が予定されていました。
時を同じくして大分県側でも九州横貫鉄道が計画され「共同成立」を申し出られるが、竹田―宮地間の難工事を思えば、採算上はとても無理だろうとそれぞれに計画を進めることとなりました。
馬車鉄道
明治33年(1900)、義和団事件による中国貿易の不振が全国的に金融恐慌を引き起こしました。熊本では熊本第9銀行の支払い停止に端を発し、これを口火として九州一円に広がり、東肥鉄道会社も解散に追い込まれました。
「戦後、一時暴騰したる株式は経済界の逆風に吹き飛ばされ急転直下、事実上に一大打撃を与へ、東肥鉄道株式会社も時勢の狂乱に伴ふて払込金壱株に付五円決議し株主に命じたなれども壱万株の内四千株は払込み、残り六千株は未払の侭権利放棄を見るの悲境陥った。せっかく築き上げた会社は哀れ事業の進行を中止する場合とはなった。ここに於て重役は一大決心して未払株の三万円は重役にて引受け、兎に角成立だけ行ひ経済界の逸回を、待って事業の進行を図る事にし、各自第九銀行より莫大なる金を借用して全部の払込を了 った。」されど時運は益々悲にして財界の不振は暗黒に陥り、全国に於ける諸会社の解散する数百六十を以て算せりと云う。其後第九銀行、百五十一銀行も憐れはかなき運命になり、東肥鉄道株式会も哀れ解散の運命を余儀なくされて花は開きても蕾で落ちてあとに残るは借金である」
かくして狂奔した努力も「一場の夢物語」で終わる。東肥鉄道計画で多大な借金を負わせるなど迷惑をかけた阿蘇の一族、同志の手前もあり、しおらしく振る舞う犬飼ではあったが、子どものころからあらゆる困窮も「屁の糟」として乗り越えてきました。明治37、8年の日露戦争の前後、失敗に終わった東肥鉄道の「代償的交通機関」として犬飼は熊本ー大津間に馬車鉄道の新設を思い立ちます。
さっそく佐賀の馬車鉄道を視察して帰ってくると有志と協議し、設計書を作成し出願して株主の募集を始めました。そこに明治三十八年春、大渕龍太郎が訪れ、雨宮敬次郎の軽便鉄道構想を示しました。雨宮の考えは「幹線鉄道の停車場には百足の足のごとく軽便鉄道を敷設して連絡を取りてこそ始めて交通上の利便を全うする」というもので、「肥後の地形はよく理想に適するか」と問われたというのである。犬飼も「時代遅れの馬車鉄道より軽便鉄道敷設するに如かず」と同意しました。
雨宮敬次郎
雨宮敬次郎はいわゆる甲州財閥の1人で当時のジャーナリズムに「雨敬」と呼ばれていました。若くして行商を始め、やがて横浜に進出します。生糸、蚕種を繰り返した後の明治九年(1876)に洋行し、欧米での見聞をもとに製粉、製鉄、鉄道、開墾など多方面の事業を興しました。ことに成長産業である鉄道事業に着目し、甲武鉄道(中央線の全身)の取締役となり、以後、東京市街鉄道(都電の前身)、京浜電鉄、江の島電鉄などの社長となりました。なかでも晩年の事業としてユニークとされているのが全国各地で2フィート6インチ軌道の軽便鉄道の設立を進めていき、「軽便王国」を築いたことです。軽便鉄道向けの車両の製造も彼の手で行われました。
「雨宮敬次郎氏との会見の結果、飽託郡松尾村字仏崎より熊本市を経て菊池郡大津町迄を幹線とし、熊本ー水前寺間、熊本ー上熊本間を支線として資本金四十万円を以って創業する事に決定して、会社の名称を熊本軽便と命名しました。
而して内二十万は雨宮氏が引受け、残り二十万円を熊本其他にて引受ける事に決まったので、僕は好物の政党方面の仕事は辞めて極力軽鉄の成功に努力傾注した。越て明治39年7月に至り其筋の許可が下ったので大渕龍太郎氏が社長となり、犬飼氏が常務取締役が常務取締役となり、雨宮敬次郎氏が取締役となり、着々事業の進捗を続けました。其の翌年の冬、熊本―水前寺間運転開始、更に其の翌年の夏は熊本ー大津町が営業開始し、其亦翌年は熊本ー上熊本駅間営業を開始し、此に至り漸く院線と連結して運輸交通の便利を開いたのである」と犬飼の自叙伝にあります。
熊本軽便鉄道による熊本ー大津町間は現在の豊肥線とは異なり、旧大津街道上にレールが敷かれ、黒髪の五高(現熊本大学)の赤門前を煙を吐きながら、走っている姿が絵葉書となって残っています。
全国の軽便鉄道は雨宮によって大日本軌道という一つの会社にまとめられ、熊本軽便も熊本支社となり、犬飼は熊本支社長となっています。
しかし、皮肉なことに鉄道院によって豊肥線のうち熊本ー大津間が大正3年(1914)6月開通すると、大津線はその役目を終え、その他の営業線はわずか6マイル余になり、経営もふるわなくなってしまい、廃業へと追い込まれました。
宮地線開通
大正7年1月25日、宮地線の開通を祝して犬飼氏は「九州日日新聞」の同日付に「阿蘇の国造健磐龍命の創業以来の偉業にして阿蘇郡民の幸福之れに過ぐるものなきと同時に郡民の国家に対する責任は又重大なるものなり。此の重大なる責任を軽々に看過するに於いては『あそんじょう』『南郷ぞふ』の名称を脱離することはむつかしかるべし」と文章を寄せています。
犬飼氏は宮地線開通から6年後の大正13年8月20日、70年の生涯を終えました。
参考
一の宮町史 豊肥線と阿蘇 ~近代の阿蘇~
索引 : い
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