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漱石と鉄道

概要

「汽車の見える所を現実世界と云ふ。汽車程20世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまつて、そうして同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車に乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車程個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によって此個性を踏み付け様とする」夏目漱石は『草枕』のなかで汽車のことをそう論じています。
「山路を登りながら、かう考へた」で始まるこの小説は、白雲がたなびく山のかなたの桃源郷に遊ぶといった、どこか現実離れをした物語のように思えますが、実は日露戦争を背景に描かれています。その際終幕に轟と汽車が停車場に入ってきて、ヒロインの那美のいとこが出征して行く場面で終わります。

文明の象徴

近代文明の象徴である「汽車」に運搬される先は「烟硝の臭い」がして、「そうして赤いものに滑って、むやみに転び、空では大きな音がどどんどどんという」大陸である。「あぶない、あぶない。気を付けなければあぶない」と主人公の画工は首をすくめる。『草枕』は漱石が英国留学から帰ってきて、3年後の明治39年(1906)9月に発表されました。
留学前の熊本の五高教授時代、同僚の山川信次郎と玉名郡小天温泉(天水町)に遊んだ体験がもとになっているといわれる。その温泉場は第1回の衆議院議員前田案山子の所有するもので、そこで長女の卓子に出会う。那美のモデルです。その義弟は中国革命を助けた宮崎滔天でした。
「あぶない、あぶない」と言いながら、漱石ほど汽車を巧みに小説に用いた作家は当時はいませんでした。

赴任

漱石は熊本に汽車で赴任してきており、明治29年(1896)4月13日のことです。三津浜(松山)を出発。誘って連れてきた高浜虚子と宮島を見物、広島で東京へ行く虚子と別れ、宇品(広島)から門司まで汽船。門司で九州鉄道に乗った。まだ山陽線は広島から先は通じていない時代でした。門司から熊本まで九州鉄道が開通するのは明治24年7月1日のこととなります。

新橋ー横浜に陸蒸気が初めて走ったのは明治5年9月。東海道線新橋ー神戸間が明治22年7月。東海道が開通した2年後には汽車が熊本に来ました。
熊本まで九州鉄道が開通した年の11月20日、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が熊本駅に降り立ちました。4日前に松江を発ち、人力車で中国山地を横断、広島に出て、宇品から汽船で門司に渡っています。ハーンは「熊本が嫌いだ」と友人らにたびたび手紙に書いています。「だだっ広く、まとまりのない、退屈な、見栄えのしない都市、それが熊本市だ。」とさんざんま言い様でした。ところが熊本に来てわずか2、3ヶ月で体重が9kgも増えています。松江と違い、肉もチーズもパンもギネスビールですらまでも容易に手に入りました。さらに前年には電灯が熊本には点っていました。松江で士族の娘セツと世帯を持ち、日本食にも慣れた友人のチェンバレンらに手紙を書き送っているハーンですが、健康を害し、日本食を受け入れられなくなっていました。熊本ですっかり体力を戻したのです。
軍都である熊本は、松江に比べ西欧的な文明の導入も早くから行われていました。ハーンには、上熊本駅に殺人犯が護送されてきた時のことを題材にした『停車場にて』という作品もあります。
漱石が熊本に赴任してきて2ヶ月後、妻鏡子も汽車で嫁いできました。
その年の9月の初め、漱石は鏡子を伴い、汽車で1週間ほど福岡に旅行しています。福岡にいる鏡子の叔父を訪ね、筥崎八幡や香椎宮、大宰府などを参り、二日市温泉などに泊まっています。漱石が汽車嫌いとはとても思えませんでしたが、鏡子は九州の旅館の汚さに懲りて、その後一緒に九州を旅することはなかったそうです。
漱石が五高に赴任した年の11月21日、鉄道は八代まで延びています。

参考

一の宮町史 豊肥線と阿蘇 ~近代の阿蘇~

カテゴリ : 文化・歴史
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