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満願寺

神話

満願寺と北条時定

1274年(文永11年)モンゴルという国から25,000人もの兵が900余りの船で日本に攻めてきました。国をあげての戦いとなりましたが、ちょうど台風の時期と重なったため敵の船は多くを失い、残った船も命からがら逃げ帰ったのです。

 時の執権(しっけん)北条時報の弟にあたる北条時定(トキサダ)は、鎮西探題(ちんぜいたんだい)として九州に来ていました。
 そこで時定は、南小国に満願寺という真言宗のお寺を建てました。今度は、前よりも大勢のモンゴル軍が攻めてくるにちがいないと、ここで、敵国退散のお祈りをするというものでした。しかし、一つには坊中にある天台宗の西巌殿寺に対抗する寺として建てたものでもありました。第2回のモンゴル軍の襲来は1281年(弘安4年)の夏、約14,000の兵と、4,000余りの兵船でした。この時も、前回同様、台風がやってきました。阿蘇神社満願寺でのお祈りも盛んに行われたことは勿論です。
 モンゴル軍はまたもや大敗して逃げ帰りました。国難を乗り切る思いを神や仏にゆだねるという事は、国の政治にとって大切な役割をもっていた時代、阿蘇神社満願寺は国の運命さえも握っていたといえるかも知れません
 満願寺には国指定の重要文化財が数多く残されています。中でも絹本着色、北条時宗像、同じく北条時定像、そして満願寺文書などは貴重な資料として、満願寺宝物庫に大切に保管されています。この外、木造地蔵菩薩立像、同じく毘沙門天立像などもあり、満願寺の古い歴史を物語っているのです。

参考

くらしのあゆみ 一の宮 -一の宮町 伝統文化研究会-


カテゴリ : 文化・歴史
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