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地主と小作人

戦前の大地主の経済力と指導力

昭和初期(1926~30年ごろ)熊本県内には小作米200俵取以上の地主が役1200名いました。
坂梨村の菅家(虎屋)は熊本県内においても上位にランク付けされ、坂梨村の産米料のうち約半数を虎屋が占めていたことになります。菅屋が明治時代以降に、地域の産業の振興や紛争の解決、または福祉対策に果たした地主の側面を見ると、農村社会史の姿そのままです。

宮地町

1,500俵栗林健輔
1,500俵古閑忠平
400俵宮川宗雄
250俵高森儀一
250俵井竿哲次郎
250俵山部 清

坂梨村

2,500俵菅 慎雄
500俵市原助雄
400俵市原利平太
200俵市原 竹
300俵渡辺秀雄
200俵渡辺金一

古城村

900俵江藤増美
800俵岩下久蔵
600俵古閑多作
200俵古閑久平
200俵井野国重
250俵渡辺茜蔵

中通村

400俵加来保光
400俵高宮広雄
400俵岩下 初
250俵中村藤三郎
250俵甲斐藤十
200俵駿河弥太郎
200俵梅野又雄
200俵岩下喜代彦
350俵中村藤三郎

殖産事業として朝鮮人参の栽培奨励

明治時代における朝鮮人参栽培について『肥の後州名所数望附』という書き本が蔵されています。天保11年(1840)に松本恒正という人によって書かれたものです。肥後の名物、佳産、珍品等の番付をしたものですが、農産畜産物の部1位は御米(肥後米)、4位が坂梨人参なのです。そしてその説明に「御種人参は坂梨町近郊に多く植うる。阿蘇郡中処々より出づるといえども坂梨の産にしかず。甚だ高下多し。植えつけて手入れよく年数経て大いなるもの上好也。価高し細き程下なり価賤し。旅へ多く出る。けだし人参は後者(国内産)は野州日光、和州芳野その他多し。唐物は朝鮮、雲南、広東、折江等の産佳也」とあり、明治時代に坂梨村では当時としては高価で貴重な薬草であった朝鮮人参が栽培され、種の配布と栽培指導及び収穫物の買い上げには、資本力を持った地主が当たった事がわかります。栽培から収穫まで数年の歳月を要し資本回転が遅いため、指導者である地主は自作農でないとさせなかったそうです。

坂梨小学校学校林の造成と難民の救済

『坂梨校百年誌』の中に次のような文があります。
「明治二十五年、学校名は坂梨尋常小学校に改められます。三十五年には坂の上部落に学校林床地を求めていますが、これが学校林の始まりです。菅、市原両家を初めとして、先見の明をもった人たちの助言などによるものと思います。この両家は去る十年の暴風火災の時に、大いに難民を救済し、それ以後も公共のために、格別の援助をおくっています。41年には虎屋菅家より学校基本金に1千円の寄付がありましたが、これは当時の米価からして約170俵に相当します。」これらを資金としたものでしょうか、42年には学校林を拡張して、現在は約5町5反と沿革史に記されています。昭和12年の南舎新築には、この山の材が大いに役立ちました。」
さらに、同じ『坂梨校百年史』の渡辺文吉氏の「同窓生点描」の文中に、菅真弘氏の人物評が述べられています。
「彼に勲章なく褒賞なし、彼は善意にくみし、美事を助くることを知るも、之についての報謝を予期したることなく、それは彼の最も忌む所である。彼の善行美績甚だ多し、而も彼は之を公表するを好まない、筆者これを二~三知るも発表するには本旨に反するをもって、之を記さない。」
小作人の家族の中に頭脳明晰で進学を希望しても学費の捻出が困難な家庭の子どもがいると、学費の面倒をみるなど、現在の奨学金制度の適用を図り、この奨学金により希望の進学が達成され、医師となった事例もありました。なお、坂梨小学校の卒業式の折には、奨学の意味で「品行方正」の生徒には「桜」のメダル、「学力優等」には同じく「梅」、「無欠席」には「桐」のメダルを授与し寄贈していました。(『坂梨校百年史』)

牧野境界紛争の解決

大正時代の末に馬場・豆札牧野と北坂梨牧野との境界紛争が起きました。両者が過熱して大鎌や山鉾を持ちだして草原で乱闘事件となり、双方にけが人が出ました。このとき、地主として両者に顔が効いた菅鎮雄氏は、間に立って示談金や治療費の面倒をみて和解の道を開いたそうです。

「お救い米」と自給肥料によるコメの生産

気象条件によって米の生産が減退すると、小作人は地主宅に赴き上納米(小作料)の「ねぎり」(減量)を嘆願していました。技術の未熟からくるものか、自然災害による不作なのかを地主側は判断する必要がありました。小作側も理不尽に強く要求すると、水田の返還と小作人代えを逆に求められたので、自然災害以外による要因では理由が立ちませんでした。
水稲の生産力増大のために、小作人側にも増産技術の知恵や自給肥料による生産コスト低減の知恵が見られるようになります。
「尿素や硫安などの化学肥料が普及していなかった昭和の初めまでは、ザシ(ハナウド)が広く緑肥として利用されていました。当時は田植えの準備が始まる5月下旬、草丈1㍍ほどになったハナウドを刈り取り、牛の背に積んで帰宅。水田10㌃当たり約800㎏を元肥として鋤き込んでいました。
また、苗代用の緑肥としては、ハナウドより早く成長するノアザミを5月上旬に刈り取り、苗代田に足駄(踏み込み用の下駄)を履いて踏み込んでいました。このほか、畑に栽培していた大根草(緑肥用大根)と呼ばれるアブラナ科の植物も利用されていましたが、その後レンゲソウに更新されていきました。」(『一の宮町史・草原と人々の営み』)
自然災害による場合は地主から程度に応じて「お救い米」として半俵程度の米が支給されました。小作人は生き延びるために、くず米やとうきびを混ぜたものを主食としていました。「食糧節減の知恵として『かたわき』の習慣があり、ご飯を仕込むとき、釜や鍋の半分にトウキビや甘藷を混ぜて炊くことで、米粒の多い部分は仏様に供えたり、高齢者や子どもに食べさせ、若い人は雑穀の多い部分を食べました。限られた食糧を有効に活かす生活の知恵でした。」(『一の宮町史・草原と人々の営み』)

雇用の場としての地主

小作人の師弟が義務教育を終えると、昔は現実には口減らしであったが、地主の家に礼儀作法を修得する名目で奉公人として住み込み、下女中は炊事、洗濯に従事し、上女中はお客の接待や部屋の掃除に従事していましたが、万事作法と上下の礼儀が厳格でした。お嫁入りの修行として、奉公を経験する社会人として一応の作法や言葉遣いができました。
『坂梨校百年史』の中に、お茶屋の描写として「大正末期に使用人大勢で、昼飯時には拍子木を叩いて呼び集められていました。それ程の豪農であった。」とあり、使用人の多さが理解できます。なお、菅家のように数百㌶に及ぶ広大な森林を管理するには、育苗・定植・下草刈り・枝打ち・間伐・伐採・搬出等に多くの男手を要し、地域における雇用の場として機能していました。

参考

阿蘇一の宮町史 戦後農業と町村合併

カテゴリ : 文化・歴史
索引 :

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