ホーム > 句碑

句碑

名称読み場所
与謝野寛(鉄幹)・晶子ヨサノヒロシテッカン)・アキコ阿蘇町・ホテル蘇山郷
松尾芭蕉マツオバショウ阿蘇町・満徳寺庭園
松尾芭蕉マツオバショウ阿蘇町・西願殿寺
高浜虚子タカハマキョシ大観峰
有働木母寺阿蘇町・加藤右馬之允墓所
小島偉邦阿蘇町・西小園
藤崎久をフジサキヒサオ阿蘇町・米塚百姓ひろば
荻原井泉水・種田山頭火オギワラセイセンスイ・タネダサントウカ阿蘇町・ともした旅館

高浜虚子(たかはまきょし)句碑 (大観望)

「秋晴れの大観峰に今来たり」
 昭和27年11月11日は、虚子は小国町の俳人、笹原耕春宅を訪れている。小国に着くとすぐに大観峰に向かう。
「火の国の火の山傍の山並みの幾屋根越えて小国やはる」

小島偉邦の句碑

「火の山のここに人家やきびばたけ」
 明治二十四年、西小園に生まれた偉邦は、阿蘇農業高校卒業後、小学校や母校の農業高校でしばらく教鞭をとった。
 大正十二年ホトトギス初入選後、三年目に十九句入選している。偉邦居は今、小杉山になっており、ここに昭和五十七年四月、阿蘇郷土の会(会長永田珠一)が写真の句碑を建てました。
 高浜虚子が昭和二十七年秋に阿蘇を訪れた目的の一つに彼の墓参があったことからも彼の俳壇での地位がうかがわれる。霊前に虚子は、「君がため遠見ヶ鼻の龍胆を」外一句を供えています。

松尾芭蕉句碑

「酒のめばいとゞ寝られぬ夜の雪」はせを
 芭蕉は伊賀(三重県)上野の生れで、江戸時代前期の俳人、俳句といえば芭蕉といわれるほど有名だが、それまでの月並な俳句に、高い文芸性を取り入れ、多くの弟子を育てたことで、俳聖と仰がれました。
 元禄七年、大阪で客死したのち、全国に多くの句碑が建てられました。
 登山道路から、西巌殿寺本堂へ登る石段の左手に建つこの句碑も、その頃建てられたものと思われるが、いつ、誰が建てたか、一切不明です。

井泉水・山頭火師弟句碑

「コスモス寒く阿蘇は暮れずある空」井泉水
「すすきのひかりさえぎるものなし」山頭火
 この師弟句碑は、昭和五十八年十月二日、阿蘇郷土の会(会長永田珠一)の後援で、四国松山市の俳人、山頭火の本をたくさん出している大山澄太が建てたものです。
 昭和四年十一月三日~四日俳誌層雲を主宰する、荻原井泉水と山頭火を含む弟子一行八名が、内牧の塘下温泉に一泊し、阿蘇登山をしました。
 井泉水は、不定形、無季の俳句を作り、弟子に種田山頭火や尾崎放哉などを育てました。
 山頭火は山口県の人で、早大を中退し、後熊本市に住み、ここで酒に酔い市電を止めたことで、出家して味取観音の堂守となりましたが、やがて俳句を作りながら、全国を放浪し最後に四国の松山で世を去りました。

有働木母寺句碑

「阿蘇谷やよな曇して遅ざくら霧の日の昇りつゝあり」女郎歌
 内牧一区の加藤右馬之允さんの高い石段の中ほどに、この句碑はある。昭和三十四年阿蘇龍胆会の人たちが建てました。
 木母寺は、熊本を代表する俳人で、俳誌水葱を主催し、広く県下を廻り指導に専念しています。

カテゴリ : 文化・歴史

このページのURL:

TOP