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二重馬牧

概要

十世紀初めにまとめられた法律『延喜式』の兵部の項に、「肥後国二重馬牧・波良馬牧」という地名が記載されています。


肥後國二重馬牧。波良馬牧。凡肥後國二重牧馬。若有レ超レ群者進上、餘充ニ太宰兵馬及當國他國驒傳馬。一


「肥後の国の二重牧の馬は、もし他の群れより優れた馬があれば都に進上し、他は大宰府の兵馬及び肥後国その他の国の駅馬として常備するように」という内容です。当時、全国の諸国から毎年、牧で飼育した牛馬が都の左・右馬寮(担当役所)に送られていました。都から遠距離にあった九州の諸国では通常、牛馬は大宰府までしか送らず、その記録だけを郡の兵部省に送付しました。しかし、この『延喜式』の内容によれば、二重牧で飼育された駿馬は特別に扱われ、もし優れた馬があれば割り当て頭数以上に直接、都まで送っていたことが分かります。この地に外輪山の原野を囲って、特に優れた馬を生産していた牧があり、その名は中央政権にまで届いていました。
県草地研究所の試算によると、年間に20頭の馬(育成馬雄雌各10頭)を生産するには、最低でも種雄馬3頭と繁殖馬41頭の計44頭を所有しなければなりません。さらに、これらを飼育するには放牧利用や干し草利用、運動場、厩舎など含めて217㌶の野草地が必要になります。
『延喜式』によれば、九州の諸国では駅馬610頭、伝馬165頭、大宰府の兵馬10頭の総計約800頭が必要とされ、これを生産する馬牧は肥前に3ヶ所、肥後に2ヶ所、日向に3ヶ所の計8ヶ所ありました。馬1頭の使役が10年間可能とすれば、九州全域で毎年80頭、各馬牧から平均10頭を供給しなければなりませんでした。これらの馬は4~5歳馬とされていて、前途の試算と飼育期間の関係から推察すると、それぞれの牧は平均400~500㌶の規模であったことになります。
阿蘇と肥後平野部を結ぶ交通路は現在、立野を経由しています。しかし、昔は二重峠超えだったといわれ、ここには江戸時代の参勤交代の石畳道も残っています。今はその場所さえ特定できない二重牧の馬も、恐らくこの道を経て都や大宰府に送られていたと思われます。
長く続く石畳の下には、当時の人々の汗と苦労が秘められています。

二重馬牧=現在の阿蘇市車帰の二重峠付近と推定されています。
※波良馬牧=現在の阿蘇郡南小国町南部の外輪山地域とみられ、その草原の広さ、地形のなだらかさ、渓流水のあることなどから考えると、恐らく阿蘇市西湯浦の熊本県草地研究所か、隣の西湯浦牧場あたりが最も有力視されています。


カテゴリ : 文化・歴史
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