ホーム > 下筌ダム反対闘争

下筌ダム反対闘争

概要

阿蘇郡小国町・津江川の蜂の巣城を中心に、13年間にわたって「公権に対する私権の戦い」が展開されました。わが国ダム建設史上最大の反対闘争。昭和32年(1957)2月、建設省は熊本、大分両県にまたがる下筌、松原のアベックダム建設を決定。水没予定地の阿蘇郡小国町志屋、浅瀬地区住民はダム反対を決議。さらに県がダム予定地の試掘を許可したのに反発し、室原知幸氏ら反対派は34年7月同町志屋の津江川(筑後川上流)右岸に蜂の巣城と言われた砦を築きたてこもりました。35年6月、蜂の巣城内の試掘を強行した建設省九州地方建設局と反対派の間で激しい水中合戦が行われ、多数の負傷者を出しました。この事件で室原氏は公務執行妨害で逮捕されました。また室原氏が起こした事業認定無効の行政訴訟で、東京地裁は38年10月有効の判決を下しました。敗訴を契機に反対派は分裂していきました。次々に条件派、補償派へと去って行きました。

強制収用

39年3月、県収用委員会は蜂の巣城の強制収容を裁決、同年6月の大執行で落城しました。しかし室原氏は第2の蜂の巣城を構築、これが収容されると第3、第4の蜂の巣城をつくって闘争を続けました。
この間、アベックダムは42年に相次いで着工され、ダム本体は44年に完成、4度にわたる強制収容で、残るは室原邸だけとなりました。室原氏の公権に対する反骨心は衰えず、次々と新たな法廷闘争で対抗しました。このため下筌ダムの貯水は出来たものの、松原ダムは室原邸が障がいとなり、ダム本体完成後1年以上も試験貯水が出来ませんでした。
九州地方建設局は45年5月、県収用委員会に室原亭の家屋と土地の収用決裁申請しました。最後の強制収用の手続きが取られるなかで、室原氏は45年6月に亡くなりました。同年10月、遺族は九州地方建設局の和解申し入れを受諾、ダム反対闘争は13年ぶり終止符が打たれました。

現在

しかし、両ダム貯水後の47年頃から周辺地区での地割れ、地すべり現象が起こり、室原氏が生前指摘していた不安が現実問題になっています。


カテゴリ : 文化・歴史
索引 :

このページのURL:

TOP