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グラスロード

概要

およそ30万年前、阿蘇山が噴火し、その後も9万年の間に4回もの火砕流噴火が起こった。これにより阿蘇山は大量のマグマを噴出して地盤が陥没。こうして出来上がったのが阿蘇の大カルデラです。
カルデラはもともと、急な崖に囲まれた火山性の凹地のことをいいます。阿蘇では、外輪山の内壁がこの崖にあたり、その外側に波状態の広大な草原が展開しています。
阿蘇谷の標高は約500㍍。北外輪山上が約800㍍なので、標高差は300㍍となります。
外輪山上の草を放牧や採草で利用するには、どうしてもこの外輪山の急な坂を越えなければなりません。外輪への坂越えは、阿蘇に暮らす人々の過酷な宿命でした。

石畳・坂葺き

大正の末から昭和の初めの頃、県の補助金で石畳が敷き詰められました。石畳は幅5尺(約1.5㍍)。外側の耳石には大きな石を配置し,崩れを防止。内側には比較的小さな石で目を詰め、歩きやすくしています。
当時、天草から5~6人の石工が招かれ、石材を割ったり、石を築いたりと分業化して仕事に当たっていました。
村人もそれにならい、急斜面の現場で岩の目をみて、重さ13㌕の玄能で石を割り、金梃で転ばせながら作ったそうです。石畳づくりに村の全員が携わり、苦闘の末に構築されました。
なお、参勤交代で有名な二重峠滝室坂の石畳は、細川藩の莫大な財政力や権力によって構築された「官道」です。しかし、一の宮町内に残る石畳の道は村の人々の血と汗の結晶で作られた「民道」。
草原から村へと草を運ぶ、農家の生活のかかった生命線でした。
外輪山の崖をつたう坂道は、一の宮町だけでも25を数えます。最南は坂梨地区の「金山宇土坂」、そして最北は象ケ鼻地区の「木落坂」。約20㌖の範囲に、おおよそ800㍍間隔で並んでいます。
これらの坂で最も傾斜が厳しいのは、北坂梨の「さざり坂」です。平均斜度21%、坂の名も膝をついて登るくらい急なことから付けられました。同じ外輪山を登るJR豊肥本線の平均斜度は5.3%、同じく国道57号が6.5%。さざり坂がいかに厳しいかが分かります。このほか、坂梨の「いんなき坂」も急傾斜で知られています。あまりにも急なため、犬が途中で降りられずに鳴いたことが、その名の由来となっています。

坂下組

外輪山にかかる坂道の下には必ず集落があり、これらの集落は、坂を中心にして形成されてきました。
坂を中心に生まれた集落を「坂下組」といい、坂の維持管理をする代表者を「坂庄屋」と呼びました。
一の宮町北東部に位置する「阿蘇品坂」は、今も坂庄屋制度によって管理されています。
管理組織の内容と具体的な管理作業は次の通りです。


30戸からなる阿蘇品集落は、東組、中組、西組の3つの組に区分けされており、各組に1人ずつの世話人がいます。坂庄屋になるのはこのうちの1人で毎年正月3日の村の初寄り合いで専任されます。任期は1年、輪番制で任に当たります。
阿蘇品坂を牛馬を引いて村全体の人が利用していた昭和30年台までは、坂庄屋には「坂葺き」を指示監督することが最も大切な仕事の1つでした。坂葺きとは、牛馬が草を積載して急坂を降りる時爪を傷めないよう、石畳や急斜面に野草や藁を敷くことです。成牛1頭あたり1~2駄(野草なら1駄6把、藁では1駄12把)ぐらい敷き、茅屋根のように縦に葺いていました。坂葺きの作業は、干し草刈りが盛んになる10月上旬に行なわれていたそうです。
坂庄屋は各組の分担場所を指示し、提出された草に名札を立てさせて検査しました。大切な牛と人名を守るため、そして村全員の団結力を高めるため、坂の維持管理は厳しく決められていました。阿蘇品坂では昭和30年台当時、70頭の牛を使って約350㍍の坂葺きを行ったと伝えられています。

参考


カテゴリ : 生活
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