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『二百十日への道』

概要

『草枕』の好評価にすっかり気を良くした漱石は一気呵成に『二百十日』を描き下ろし、その年の『中央公論』10月号に発表しています。『草枕』が能仕立てであるのに対し、『二百十日』は狂言の様です。2人の登場人物が勝手にしゃべり、そのやり取りの面白さ、軽妙さ。阿蘇登山にやってきた圭さんと碌さんです。明治32年(1899)8月末から9月初めに漱石はやはり山川信次郎と阿蘇に小旅行をしています。熊本から馬車でやってきた漱石と信次郎は、大津、立野を経て、まず阿蘇郡長陽村の戸下温泉に宿泊しています。
黒川、白川が合流する渓谷内にあり、南には北向山が迫り、「夏は碧翠滴るが如く秋は紅葉錦を彩り水溶山色風光実に絶佳の土地」で細川藩時代から避暑地とされてきました。明治15-6年ごろ、地元の赤峯正起らが上流の栃木温泉から泉湯を引いてきたのが戸下温泉の始まりですが、整備したのは久木野村の有力者長野一誠であり、昭和59年(1984)9月、立野ダム建設に伴い閉鎖されるまで約100年、長野家が経営する温泉地となっていました。
長野一誠は第2回衆議院議員(国権党)を努め、植林、養蚕、絹織物工場の創設、この地の産業振興、地方開発を
なした人物として知られ、立野火口瀬から戸下の渓谷を通り、高森へ通じる南郷往還を自ら私財を投じ開通させています。戸下温泉に別邸を設けたのはその開通を記念したものともいわれています。豊肥線建設に関しても当初から最も中心的な推進者でした。
あの『草枕』のモデルの舞台となっている小天温泉が同じ国権党の代議士前田案山子の別邸であったように、阿蘇行でも2人は長野家を頼ってやって来たと考えられなくもありません。小天の前田案山子は槍の達人でしたが、長野一誠も宮本武蔵の二天一流を学び、後に師範を継いでいます『二百十日』には、泊まった宿の隣の部屋で「ふうん。とうとう小手を取られたのかい」「とうとう小手を取られたんだあね・・・」としきりに剣術の試合の話をしている場面が出てくるが、もしかすれば、内牧の宿ではなく、戸下の別邸で見られた光景なのかもしれません。
長野家の経営する戸下温泉には、明治26年、細川家当主護久や北白川宮妃らも入湯しており、日清戦争の傷病兵の保養地にも当てられました。

内牧

ところでこの戸下、栃木温泉から阿蘇山上には登山道が通じています。というより戸下、栃木温泉に泊まったら、そこから直接、阿蘇山上を目指すのが通常です。明治40年(1907)、与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野萬里の5人の『五足の靴』の集団も栃木温泉の先の垂玉温泉に泊まり、そこから阿蘇山に登っています。
漱石と信次郎は戸下を発ち、阿蘇谷の内牧温泉に泊まり、宮地の阿蘇神社を参拝したあと阿蘇中岳の火口を目指しています。阿蘇谷を半周する格好でずいぶん迂回したコースをとっています。阿蘇神社に参拝するためなのかは不明です。
現に国木田独歩は明治27年、弟と2人、阿蘇山上から宮地の方に下りてくると、「宮地やよいところじゃ阿蘇山のふもと」馬子唄を歌いながら、24、5の屈強な壮漢が手綱を引いて通り過ぎ行く。その時の印象を『忘れ得ぬ人々』に描いています。阿蘇登山が目的ならわざわざ内牧まで回る必要はなくなります。内牧の温泉といっても2年前に突き井戸をしているうちに田んぼのなかから湧出したばかりの新興の温泉地でした。
「九州日日新聞」によれば、漱石ら2人が戸下温泉に泊まる半月前、熊本県下は暴風雨の大きな被害にあっています。長陽村でも戸下に建設中の眼鏡橋が流され、10数戸の家屋が全倒しています。崖崩れなどで戸下から阿蘇山に至る途中がまだ通行不能になっていたことも考えられます。
宮地の阿蘇神社に回るよう勧めたのは案外長野一誠だったかもしれません。その時、一誠は65歳。経済難の阿蘇家の建て直しに奔走し、細川家から興入れした志津子姫の離縁騒ぎに胸を痛めていました。あるいは内牧の養神館を紹介したのも一誠かもしれません。五高の教授といえば、名士であり、長野家も軽くは扱ってはいないはずです。一誠は五高が設置される際、建築費の寄付者のなかに名を連ねています。漱石が戸下にやってくる5ヶ月前、五高を訪ね、教授友田鎮三の案内で地震計や電気鉄道の機械などを見せてもらっています。
しかし、もとより気ままな2人の小旅行です。では戸下から内牧までどんな道をたどったのか。いったん立野に戻り、そこから県道を阿蘇谷へをたどったはずです。この県道は豊後街道二重峠越えに代わって、比丘尼谷の難所を掘削して立野から坂梨に直進し、大分へ通ずるもので、明治18年、県令富岡敬明によって完成しました。今の国道57号の原型となるものです。
この工事には囚人たちも労役に駆り出されており、徳富蘆花の『青山白雲』の小品『数鹿流の瀧』には「此のあたりの村人旅人が此の滝の音を聞きつつ常に往来する豊後往還は、昔より”大阪坂なし、坂梨坂あり”など唄へて、人馬を泣かす悪路なりしが、先年熊本監獄より大勢の囚徒を派遣し、道普請をなしたれば、今は人車の往来も自由になりぬ」とかかれています。
おそらくこの県道を馬場に揺られながら、まだ赤瀬橋が開通していないので数鹿流ヶ滝の下の石橋を渡り、小国往還へと出て、内牧に向かっていったと思われます。
2人は噴煙を上げる阿蘇中岳を客馬車の中から振り返りながら、さあっと風が渡ってゆく、穂ばみ始めた稲田の間を進んでいったと思われます。

文明の尺度

「初秋の日脚は、うす寒く、遠い国の方へ傾いて、淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促すなかに、かんかんと鉄を打つ音がする」
内牧の西端、竹林集落の温泉宿、養神官(現・山王閣)に投宿した漱石は、寂しい山里の風景に心細くなります。かんかんと鉄を打つ鍛冶屋の音に、子どものころ、布団の中で聴いた向かいの寺の鉦の音を連想し、出生地の牛込の江戸の名残の寂しい風景を思い浮かべたのでしょうか。
まだ鉄道が登ってこない前のこの村里の音はどんなものがあったのでしょうか。村の鍛冶屋の音やお寺の鐘の音、ときどき通る荷車のきしむ音。鶏のときを告げる声、ねぐらに帰るカラスの鳴き声など。
温泉からあがり、さっぱりとしたところで食事が出る。湯葉に椎茸に里芋に豆腐。肴は何もない。ビールを頼んだら、「ビールは御座りませんばってん、恵比寿なら御座ります」という返事。盆の上に運んできたビールに「姉さん、この恵比寿はどこで出来るんだね」と聞くと、「大方熊本で御座りまっしょ」
その女中さんにとって文明は熊本から上ってくるのだ。二人は半熟卵も頼んでいます。
ところが、女中さんは圭さんには生卵、碌さんにはゆで卵を持ってくる。
「なんだか言葉の通じない国へ来た様だな。―向ふの御客さんのが生玉子で、おれのは、うで玉子なのかい」
「ねえ」
「なぜ、そんな事をしたのだい」
「半分煮て参じました」
落語のように面白いが、半藤一利氏(『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞受賞)は「阿蘇にはまだ半熟卵が上ってきていなかった」と西洋文明の尺度としてこれを論じています。それまで日本では生でご飯にかけるか、茹でて食べるか、「全熟」のゆで卵しかなく、漱石自身、半熟卵を知ったのは英国留学でのことと思われます。果たして阿蘇で実際に半熟卵を頼んだかどうかは疑問が残ります。
この地に温泉が出たのは2年前のこと。灌漑のため突き井戸をしていたら、突然湯が噴出しました。内牧の医師小野蘇八がその土地を買い取り、別荘を建てました。翌年、小野の義姉「たま」がそこで旅館業を始め、その翌年、漱石らは投宿しています。
たまの長女ふで(明治17年~)は同じ内牧の造り酒屋大津屋に嫁ぎ、92歳で亡くなりましたが、漱石が来た時のことを記憶していたそうです。「いくら阿蘇の田舎とはいえ、ビールを知らなかったとは思えません」と生前、語っていました。
それはさておき、「6時に起きて、7時半に湯から出て、8時に飯を食って、8時半に便所から出て、そうして宿を出て、11時に阿蘇神社へ参詣して、12時から登るのだ」と圭さんは言う。
内牧は豊後街道と小国往還が交差する宿場町で、藩政時代には会所も置かれました。参勤交代で
藩主が泊まる御茶屋は小さな城構も持っていました。維新後、会所は郡役所となり、ここに置かれ、内牧警察署、郵便局も設けられるが、明治18年(1885)の大分県に通ずる県道改修の完成で郡役所なども宮地の古神に移転し、一時衰退していましたが、温泉が出たことで旅館なども建ち、いくらか活気を取り戻しつつあったころです。

門前町

内牧から宮地までは1里34町。豊後街道を今町、道尻、塩塚まで進むと、道標があり、右折せず、東進します。もう阿蘇神社の森が見えてきます。
おそらく阿蘇神社門前町を通ったはずですが、『二百十日』にはそのあたりの描写はありません。ないばかりかまるで山道を登ってきたかのような印象を与える。所々に馬の足跡があり、たまに草履の切れが茨にかかっていて、人気も乏しい山中の感すらするが、実際は田畑もあれば、人家もある。街道時代の石畳も残っていたはずです。宮地の町に入ってくると、神社に向け下町、仲町、上町と続き、上町のわきに横町と門前町が形成されていました。何といっても阿蘇神社は肥後国一の宮で、官幣社です。造り酒屋、呉服屋、薬種問屋、雑貨屋などが軒を並べ、それに商用や公務、阿蘇詣でにやってくる人達を相手に旅館、食堂、小料理、遊女屋などが競っていました。神社の楼門の前には、蘇門館という宮地を代表する旅館もありました。そのころから宮地は十分に町でした。

宮地から阿蘇山上へ

「白木の宮に禰宜の鳴らす柏手が、森閑と立つ杉の梢に響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額に落ちた。饂飩を煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へ靡いた頃から、午過ぎは雨かなとも思はれた」
阿蘇神社に残っている社務日誌によれば、明治32年(1899)8月30日、31日は「美晴」。二百十日に当たる9月1日は記されておらず、2日は「強雨、午後美晴」、3日は「美晴」と記されています。つまり30、31日は晴れで、2日は強雨だったが、午後から天気は回復しています。激しく雨が降ったのは2日午前中だけだったとは思えません。たぶん、低気圧のせいで前日から天候は崩れていたはずです。『二百十日』では、午前11時ごろ着いた阿蘇神社でぽつりと何やら額に落ちるものがあり、空模様が怪しくなってきます。阿蘇登山の途中、風が強くなり、雨も降り出します。『二百十日』にあるごとく2人が阿蘇山に登ったのは、9月1日と考えられます。

阿蘇神社で詠まれた漱石の句

  • 朝寒み白木の宮に詣でけり
  • 秋風や梵字を刻す五重塔
  • 鳥も飛ばず二百十日の鳴子かな

そこから阿蘇中岳の火口を目指しています。宮地は阿蘇の東の登山口でした。宮の馬場を抜け、郡役所の前を通って県道を渡り、阿蘇家累代の墓地のかたわら道を仙酔峡を眼前に進み、途中、原野の中を進んでいったと思われます。
「痛快だ。風の飛んで行く足跡が草の上にあれを見給え」と圭さんは、強風にうねり狂う青い草の海を指す。空にあるのは、もくもくと火口が吐きだす真っ黒な噴煙と雨と風と雲です。その雄大な光景に、「僕の精神はあれだよ」と圭さんは言う。「革命か」「うん。革命さ」「文明の革命とは」「血を流さないのさ」「刀を使はなければ、何を使うんだい」「頭か」「うん。相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ」「相手は誰だい」「金力や威力で、たよりのない同胞を苦しめる奴らさ」・・・
しかし、風雨はさらに激しさを増し、二人は道に迷い、窪地に落ち込み、さんざんな目に遭って下山します。
漱石は原野を彷徨った区は残していますが、火口を描写した句はありません。実際に山上までいったかどうかは不明です。
この小説は漱石が近代文明がもたらす社会の不平等に対して悲憤慷慨する物語です。しかし、阿蘇の人々にとってその「文明」の到来こそが待たれていたのです。

参考

一の宮町史 豊肥線と阿蘇 ~近代の阿蘇~


カテゴリ : 文化・歴史
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